2017年6月25日  聖霊降臨後第3主日  マタイによる福音書7章15〜29
「人生の本当の土台」
  説教者:高野 公雄 師

  《15 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。》
  山上の説教(マタイ5〜7章)は、《心の貧しい人々は、幸いである》(5章3)という祝福の言葉で始まって、神の祝福・救い・ゆるしを受けた人が、どのように生きるべきかを教えています。きょうの個所はその結びの教えであり、山上の説教の言葉を行う者と行わない者が対照されて、ここで聞いた言葉を行うようにと強く勧めて、全体が締めくくられます。
  新約聖書で預言者というのは、イエスさまの伝道スタイルに従って、巡回しながら、教えたり、祈ったり、病をいやしたりするカリスマ的伝道者のことです。イエスさまを信じる民は、このような人たちによって指導されていたのです。彼らの中には「偽者」がいたので、預言者たちを見分けなければなりませんでした。さもないと、偽預言者に導かれて、間違った道を歩んでしまうかもしれません。

  《16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。》
  そこで、偽預言者を見分ける規準として、木とその実のたとえが語られます。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」、と「実で見分けなさい」という原則が示されます。ただし、何を良い実または悪い実とするかは問題です。イエスさま自身も当時の規範に違反する者として偽預言者とされたのです。「良い実」とは、「山上の説教」で説かれた言葉を実行する生活のことです。

  《21わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。22 かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」》
  前の段落では、偽預言者を見分けよと信徒の群れに警告しましたが、ここでは、偽預言者に向かって、《かの日》(終わりの日)に神の裁きが臨むと警告しています。偽預言者は「主よ、主よ」と言い、「御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行った」人々でもあり、実際にこのような人々を偽預言者であると見分けるのは難しいでしょう。「毒麦のたとえ」(13章24以下と36以下)は、それがいかに難しいかを語っています。しかし、預言も奇跡もそれだけでは「良い実」ではありません。「良い実」とはただひとつ、《わたしの天の父の御心を行う》ということです。このことは、預言者や教師たちの真贋を見分ける規準であるだけでなく、すべての信徒にも当てはまることです。
  「天の父の御心」とは、本物と偽物とを区別する「良い実」とは、どういうものでしょうか。山上の説教ではこう語られています。《敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである》(5章44〜45)。また、《このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(7章11〜12)。
  これらの個所には、明確に「父である神の御心とは何か」が示されています。これらの言葉は、「神の御心がこれであるから、努力してこの御心を実行しなければならない」と言っているだけではありません。もうひとつさらに大切なことを言っているのです。それは「神がその御心をもってわたしたちを限りなく愛してくださった。その愛を受けたからこそ、わたしたちは神の御心を行うことができるのだし、したがって行うべきだ」ということです。イエスさまはわたしたちが律法を守ることができない、弱い者であることをご存じで、疲れた者、重荷を負う者を天の国、つまり恵みによる支配のもとに招いてくださいます。神の国とか永遠の命に入るのは、律法を守り行う者ではなく、神の絶対無条件の恵みを砕かれた心で無条件に受ける者であるという良い知らせこそイエスさまの福音です。
  「恵みによって救われる」、「その恵みを受け入れる信仰によって義とされる」というのはキリスト教信仰の核心です。その意味で、「信仰」とは、あなたがイエスさまを信じることではなく、イエスさまがあなたに働きかける「信実」のことだと言われます。「恵み」はイエスさまの信実を通してあなたに「信仰」をもたらし、「信仰」はあなたに良い実、愛の業をもたらします。わたしたちの行いに先立つ神の恵みがなければ、自分の力で律法を守り、神の前に自分を誇ろうとしたファリサイ派と同じ落とし穴に落ちいります。
  神の恵みの支配のもとで生きるとは、自分が父の無条件の愛によって生かされているのだから、自分の隣人を同じ無条件の愛をもって受け入れ愛するという場に生きることです。イエスさまが《あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》(ルカ6章36)と言われたとおりです。ですから、「父の御心を行う者だけが天の国に入る」とは、ユダヤ教の律法主義とはまったく違います。あくまで神の恵みの支配を現実にも貫こうとしているのです。

  《24 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」》
  このたとえは、わたしたちに「聞いて行うか、聞くだけで行わないか」を鋭く問いかけます。土台である「岩」はイエスさまの言葉であり、そして「家」はわたしたち一人一人の生き方のことでしょう。
  イエスさまの言葉を「行う」というのは、律法とかその他の規範に従って個々の行為をするという意味ではありません。それは、イエスさまの言葉が指し示す道を実際に歩み、自分の思想と人生の全体をイエスさまの言葉に従って形成することです。その時、わたしたちの人生はどのような試練や苦難が襲ってきても、それを乗り越える知恵を宿す人生になるのです。それは、これらの言葉が語っていたように、父の慈愛と信実が現実にその人の人生の土台となるからです。その人生は岩の上に建てられたものになります。それに対して、わたしたちがイエスさまの言葉を聞くだけで生きることをしなければ、わたしたちの人生は、父の慈愛とか信実に関わりなく、わたしたち自身の力に任されてしまいます。人間の弱さを考えると、自分の力と知恵だけに委ねられた人生は脆いものです。それは砂の上に建てられた人生です。

  《28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。》

  「イエスはこれらの言葉を語り終えられると」という言葉は、山上の説教がここで終わったことを表わしています。
  律法学者は書かれた律法(モーセ五書)と父祖たちの言い伝えを解釈しなおして民衆に教えていました。それに対して、イエスさまは《あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「・・・」と命じられている。しかし、わたしは言っておく》(5章21など)と、自分自身を権威として語り、昔の人が聞かされていたモーセ律法の権威を超えるものであるとされました。イエスさまは、御霊によって生き、御霊によって力ある業をなしておられるご自身の現実から語り出しておられるので、聴く者に圧倒的な権威を感じさせるのです。きょうの聖書個所は、わたしたち一人ひとりに、イエスさまの権威ある言葉を人生の土台とするように、神の恵みによる支配のもとで生きるようにと招いているのです。


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