2017年7月9日  聖霊降臨後第5主日  マタイによる福音書9章35〜10章15
「十二人の弟子を選ぶ」
  説教者:高野 公雄 師

  《9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」》
  イエスさまの地上の働きが、《会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え》たことと、《あらゆる病気をや患いをいやされた》ことの二点に要約されています。イエスさまはこれらの働きを、《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》ために行ったのです。イエスさまには、「群衆」すなわちすべての人間が飼う者のない羊の群れのようであり、救いを必要とする者たちであると見ていたのです。
  町や村には「会堂」があり、「飼い主」はいました。指導者たちが飼い主として人々を養い導く勤めを果たしていなかったということです。このことは、当時の指導者たちである律法学者やファリサイ派の人々に対する激しい批判の意味が込められています。彼らは神の律法を人々に教え、それに基づく生活を人々に指導していましたが、それは本当に神のみ言葉によって人々を養うことになっていなかったのです。
  ただし、人々が飼い主のいない羊のようになってしまうのは、指導者だけの責任ではありません。人々は自分から飼い主のもとを離れていってしまうことがあるのです。神のもとで、その群れに留まって生きることを窮屈に思い、もっと自由に、自分が主人になって歩みたいと思って家を飛び出していきます。わたしたちはそうして飼い主のいない羊になっていき、しかも、自分が弱り果て、打ちひしがれていることには、なかなか気づかないのです。
  神が世に送り出されたみ子イエス・キリストこそ、わたしたちを養い導いてくださるまことの羊飼いです。わたしたちはこのまことの羊飼いによって探し出され、わたしたちが本当に生きることのできる場である神のみもとへと連れ帰られたのです。弟子たちも、以前は群衆と同じようだったのですが、今は、イエスさまに見出され、そのもとに養われる羊として生きているのです。その弟子たちに、イエスさまはこう言います。《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》。収穫とは、神のもとに立ち帰って救われる人々のことです。その「収穫は多い」とイエスさまは言われます。

  《10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。》
  イエスさまは十二人を選び呼び寄せて、《汚れた霊に対する権能をお授けになった》。それは、《汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった》。これらのことは、イエスさま自身が群衆を深く憐れんでこれまでに行なってきた働きそのものです。弟子たちが選はれたのは、イエスさまの深い憐れみの御心の担い手となり、収穫のための働き手となるためです。
  ヤコブの十二人の息子たちから旧約の民が生まれたことにならって、十二人の弟子が選ばれ派遣されたことから、新しい神の民が生まれていきます。新しい神の民は、血筋によらず、弟子たちが宣べ伝えた《天の国は近づいた》という福音を信じ、それをもたらしたイエスさまを救い主と信じて従っていく人々です。この十二人の伝道によってイエスさまを信じ、イエスさまによって到来した天の国、神の恵みの支配を信じた者たちは、彼らと同じ使命を与えられて遣わされていくのです。ですから、派遣された弟子たちへの教えは、イエスさまを信じるわたしたち一人一人に対する教えでもあります。

  《5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」》
  イエスさまは十二人を遣わすに当たって、《異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい》、と命じます。娘のいやしを願うカナンの女にも、《わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない》(15章24)と答えています。このイスラエル限定は、終末が迫っているという切迫感によるのでしょう。イエスさまはこのあとで、《はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る》(10章23)と、終末、再臨が近いことと言っています。復活の主イエスは弟子たちを「すべての民」(異邦の諸民族)に派遣されますが(28章19)、地上のイエスさまはイスラエルだけを視野に入れておられたようです。
  彼ら十二人は、《行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい》という任務を与えられました。そのような権能は主が与えてくださるものであって、遣わされる者は自分の能力や才能によって使命を果たすことを期待されているのではありません。ですから、弟子たちが派遣されて行う業は、《ただで受けたことのだから、ただで与えなさい》、と言われるのです。十二人は、汚れた霊を従わせるほどの権能を主から与えられて遣わされました。代金や見返りを要求されない純粋な贈り物として、彼らは主ご自身の語っていたことを語り、行っていた業を行う力を与えられたのです。
  弟子たちの働きは急を要します。使命のために旅立つにあたって、イエスさまは言います。《帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない》。遣わされ出て行くにあたり、経済的なことが心配になります。そのための備えをするなということではありませんが、この世の金銀に依存する姿勢を問題としているのです。主イエスさまがそのみ業のためにわたしたちを派遣するとき、金銀ではなく、派遣するその主ご自身を究極的な頼りにせよ、と言われます。《働く者が食べ物を受けるのは当然である》。主のために働く者は主が当然その働きを通して生活が成り立つよう備えてくださるというのです。具体的には、行った先々の人々が必要なものを献げてくれるということですが、しかしそれは根本的には神が与えてくださることです。イエスさまは「山上の説教」で、《あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる》(6章32〜33)と言っておられました。この父なる神のみ心を信じて、その御手に身を委ね、与えられた使命を果していく、それが、何の蓄えも用意もなく派遣されていく弟子たちの姿なのです。そしてそれは、まさに神が何の資格も相応しさもない自分に、ただで、恵みによって与えてくださるものによって生かされていくということです。
  最後に、弟子たちは、遣わされた先で《平和があるように》と挨拶するように教えられます。わたしたちは誰に対しても「平和があるように」という神の祝福を祈ります。祝福を受けるにふさわしい人は、神の国の使者を迎え入れて平和を与えられ、そうではない人は神の支配が到来していても、その喜びには与れません。《足の埃の払い落としなさい》というのは、神の祝福を拒絶する者が自ら招く災いが、遣わされた者には及ばないことを象徴的に示す行為です。派遣はこのような祝福の使者として遣わされることなのです。これは使徒たちに語りかけられているものですが、これらの教えはここにいるわたしたちに語りかけられ、与えられています。わたしたちは、この世の生活の中から礼拝の場へ選ばれ、召されて集められました。そこで使命を与えられて、主のみ足の跡に従い、主と共に神の平和を携えてゆく者とされます。


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