2017年7月2日  聖霊降臨後第4主日  マタイによる福音書9章9〜13
「徴税人のマタイを弟子にする」
  説教者:高野 公雄 師

  《9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。》
  この章の始めに、《イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた》(9章1)とありますから、きょうの話の舞台はガリラヤ湖の北西岸の町カファルナウムです。カファルナウムは交通の要衝で収税所がありました。そこに徴税人が座っていたのです。徴税人の仕事は、取引される品物にかかる関税や道路や橋を通る通行税などを徴収して、請け負った一定金額をローマ総督やヘロデ王家に収めることです。しかし、洗礼者ヨハネが、洗礼を受けに来た徴税人に《規定以上のものは取り立てるな》(ルカ3章12)と説いているように、実際の徴税に当たっては民衆の無知につけこんだりしてできるだけ多くの税金を取って、私腹を肥やすのが常でした。それで、ユダヤ教社会では、「徴税人」という職業は盗賊や詐欺師と同列に置かれ、本来不誠実で不道徳な職業とされ、公職や法廷での証人の資格も認められず、民衆から蔑まれて村八分のような扱いを受けていたということです。
  「罪人」というのは「殺人犯」とか「盗賊」という犯罪者、あるいは道徳的・宗教的な戒めに違反して世間から指弾されている人たちだけを指すのではなく、それに携わる人を不道徳・不正直にすると考えられていた職業の人たちをも広く指す用語でした。このような職業の代表的なものが「徴税人」と「娼婦」であり、その他にも「賭事師、高利貸し、両替商、税吏、羊飼い」というような職業が挙げられます。福音書において「徴税人と娼婦」、「徴税人と罪人」、あるいは単に「罪人」と呼ばれている人たちは、このような人々であり、当時のユダヤ教の指導的立場にいた律法学者やファリサイ派の人たちからは、聖なる律法の知識なく、道徳的にもいかがわしい徒輩として軽蔑され、汚れた民、救いには縁のない民として見捨てられていたのです。
  イエスさまは、通りがかりにマタイが収税所に座っている、つまりいつものとおり仕事をしていたのを見て、《わたしに従いなさい》と言って召されると、マタイはただちに《立ち上がってイエスさまに従った》とあります。この「立ち上がる」または「起き上がる」は、死者の復活を意味する言葉でもあります。罪の中に座り込んで浸っていたところから、イエスさまの招きの声によって立ち上がったのです。マタイは、罪の中に座り込み、起き上がることのできない、死んだような状態から復活させられたのです。新しい命を与えられたのです。マタイが弟子になったという出来事は、そういうイエスさまの救いのみ業です。マタイを起き上がらせたのは、《あなたの罪は赦される》(9章5)と宣言してくださるイエスさまの権威です。そしてわたしたちにも、同じことが起るのです。「わたしに従いなさい」というみ言葉は、「あなたの罪は赦される」という宣言を内に含んだ、イエスさまの招きの言葉なのです。

  《10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》
  おそらく、マタイはイエスさまのような神の人が徴税人である自分を弟子として受け入れてくださったことへの喜びと感謝から、そして徴税人としてのこれまでの生涯に訣別することを世間に知らせるために、人々を喜ばせる大きな散財をしたのでしょう。
  ここでイエスさまが徴税人や罪人と共に食事をしたという事実が大切です。食事とはただ空腹を満たすための行為ではありません。食事とは交わりの重要な契機であり、表現です。この食事の場面というのは、イエスさまと徴税人や罪人、社会的に疎外された者たちが交わりを持ったということなのです。イエスさまを中心として再び交わりが回復されているということです。聖書の中では、神の国をよく宴会のたとえでもって示します。交わりから切り離され孤独を歩んでいた者、すなわち死の支配にもとに閉じ込められていたわたしたちが、神の国においてイエス・キリストを中心として命の交わりを回復する姿です。
  この食事の様子を見ていたファリサイ派の人々にとって、律法を知らず、律法を守ることのできない生活をしている徴税人や罪人らと食事を共にすることは、彼らの仲間になることであり、みずからを律法の違反者とすることです。いくら病人を癒したり悪霊を追い出すような奇跡を行っていても、神の律法に違反している者が神の僕であるはずがない。《見ろ、大飯漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ》(11章19)というイエスさまに対する罵倒の言葉も、彼らが言い触らしたものでしょう。彼らは弟子たちに向かって《なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか》と非難します。
  このような非難に対してイエスさまは比喩でもってご自分のしていることの意義を語ります。《医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という旧約の預言者の言葉(ホセア6章6)の引用は、イエスさまの主張が旧約聖書の真意を実現するものであることを示しているのです。
  当時のユダヤ教の原理は「いけにえの原理」でした。すなわち、神と人との関係は人間が神に捧げる良きものによって成立するという原理です。そして、神から与えられた律法を守る行為こそ神に捧げる良きものであるから、それを積むことによって「義人」として神に受け入れられる、ということになります。それに対して、イエスさまが生きておられる世界は「憐れみの原理」に立つ世界でした。イエスさまが体現しておられる「神の支配」は「恵みの支配」です。人間がどれだけ良きものを神に捧げることができるかではなく、何も捧げることができない人間にも神がその憐れみをもって無条件に交わりの手を差し伸べてくださるのです。イスラエルの神は本来、預言者も指摘しているように、「憐れみ、慈しみの神」でした。それが傲慢という人間の本性的な罪のために、人間を主人とする「いけにえの原理」の宗教に転落してしまっていたのです。
  イエスさまは、義人ではなく、罪人を招くために来られたのです。わたしは、病人のための医者としてこの世に来たのだ、と言われます。その病人とは、マタイのことです。そして罪の中に座り込んで立ち上がることができないでいるわたしたちのことです。そういう者たちのためにこそ、イエスさまはこの世に来られたのです。そこに、イエスさまの、わたしたちに対する招きがあります。「わたしに従いなさい」という語りかけがあります。この招きによってわたしたちは、それぞれの座っている収税所から立ち上がって、イエスさまの弟子となることができるのです。マタイに起ったのはそういうことでした。神の憐れみこそがわたしたちを救うのです。そのことを「行って、学べ」とイエスさまは言われました。ファリサイ派の人々は、神の憐れみを学ぶために、出かけて行かなければならないのです。自分の正しさ、自分の熱心や努力、自分はこれだけのことをしてきた、という思いの中に座り込んでしまうのでなく、そこから立ち上がって、出かけて行かなければならないのです。自分の熱心や努力にこだわり、自分は人よりも正しい、清い生活をしていると思って満足しようとする、その思いこそが、ファリサイ派の人々にとっての収税所なのです。イエスさまは彼らを、そこから立ち上がらせようとしておられます。そして、神の憐れみをこそ見つめさせ、そこにこそ救いがあることを学ばせようとしておられるのです。徴税人であり、罪人であったマタイが立ち上がってイエスさまに従って行ったのも、神の憐れみを学ぶためです。イエスさまと共に歩み、その教えを聞き、み業を見ることによって、彼は、イエスさまにおける神の、罪人に対する深い憐れみのみ心を味わい知っていったのです。その頂点が、イエスさまの十字架の死でした。イエスさまはマタイの、そしてわたしたちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死なれました。罪人を招く主は、その罪人のために死んでくださったのです。イエスさまの弟子として生きるとは、このイエスさまの恵み、罪人に対する憐れみのみ心を常に新しく学びつつ、味わいつつ生きることです。イエスさまはマタイをも、ファリサイ派の人々をも、わたしたちをも、そのような弟子としての歩みへと招いておられるのです。この招きに答えて立ち上がり、イエスさまにおける神の憐れみを学ぶために出発することをイエスさまは求めておられます。ただ一つ求められているのは、わたしたちが罪人を招いてくださるイエスさまの招きに応えて、自分の収税所から立ち上がってイエスさまのもとに来ることです。イエスさまの弟子として、信仰者として歩んでいく者となるのです。それは、マタイに起った奇跡がわたしたちにも起ることなのです。


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