2018年3月18日  四旬節第五主日  ヨハネによる福音書12章36b〜50
「イザヤによる受難預言」
  説教者:高野 公雄 師

  《36b イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。40 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》。
  《光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。・・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい》(ヨハネ12章35〜36a)。これがユダヤの一般民衆に与えたイエスさまの最後の言葉です。こののちイエスさまは人々から身を隠された、と書かれています。ただし、《このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった》とあるのは、前の言葉に対する反応に限らず、これまでにイエスさまが行ったすべての働きに対する人々の反応のまとめとして書かれています。
  36節後半〜43節は、福音書記者ヨハネによる解釈であって、人々が信じなかったのは何故かという疑問を解き明かしています。ヨハネは、そのことは《預言者イザヤの言葉が実現するためであった》と言って、イザヤ書から二個所を引用しています。先ずはイザヤ53章1の引用です。《主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか》。イザヤはこのように人々の不信仰を嘆いて、神に訴えていますが、これはイエスさまに対する人々の不信仰を預言する言葉です。そしてヨハネは《彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている》と言って、次にイザヤ6章10を引用します。《神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない》。
  信じるか信じないかは、聞く人々の自由選択にかかっていたというわけではありません。神の力の現われるところ、そこに信仰が起こり、告白が呼び起こされるのであって、人々が信じなかったのは、神の力が来なかったためです。ヨハネは、むしろ、神が彼らに信じることをできなくされたのだと言うのです。ここで大切なことは、信仰は人間の業ではないということです。自分自身の決断のように思えるかもしれませんが、そこには、目を開き、心をさとしてくださる神の働きがあるのです。《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》(Tコリント12章3)。つまり、イエスさまが世に来てくださったことだけが神の御業なのではありません。その救いの出来事が、わたしたちのものとなり、わたしたちがイエスさまを信じるということもまた神の霊の働きなのです。わたしがイエスさまを信じることができたのは、ただただ神の恵みによって、神がわたしを選んでくださったからで、わたしには何の手柄もないということです。ですから、自分が神の選びの中で救われたと信じる者は、ただただ神に感謝し、神をほめたたえるのみです。
  41節の、《イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである》というヨハネの解釈には留意しなければなりません。ヨハネは神の栄光を見たとされるイザヤ6章の体験を、イザヤは神の独り子なるイエスさまの栄光を見たのだと解釈します。それゆえに、6章10の言葉をイエスさまに対するユダヤ人の不信仰の預言だと言えたのです。イザヤはみ座に挙げられたイエスさまの栄光を見ました。そして、その挙げられたお方は、十字架に挙げられることによって栄光を顕すのです。イザヤは神によって救い主の苦難をも示されました。その姿はイザヤ53章に記されています。だから、このような預言ができたというのです。
  42節に、《とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった》と書かれています。信仰は心の問題ですから、告白するかしないかは大した違いはないと考える人もいるでしょう。しかし、口に言い表わすことが勧められるのは、言い表わすことによって肚が決まるという効果があるというような理由ではありません。口に言い表わすのは、人に対してよりも、わたしたちの言葉を受ける神とイエスさまに対するものだからです。その告白の言葉をイエスさまが受けてくださるから、確定したものとなるのです。

  《44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」》。
  最初に、「イエスは叫んで、言われた」と記されています。地上の生涯の終わりに当たって、これまでに教えられたことの核心が力強く宣言されます。きょう聞くことは、言葉としてはすべてこれまでに教えられたことの繰り返しですが、それらがしっかりと聞き取られる必要があります。神の言葉が神から遣わされた人によって語られ、それを受け入れることが信仰なのだと、イエスさまは繰り返し教えました。《わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである》。これは、「イエス・キリストを信じることはそれほど大事でもない。彼を遣わした神を信じることこそ大事だ」と言われたものではありません。イエスさまを抜きにした神信仰には、たえず不確かさが伴います。そしてまた、イエス・キリストについての観念や説明を受け入れているだけでは、まだ信仰とは言えません。実際にイエスさまと出会って、確かめて、この方こそわたしの救い主であり、わたしの身を捧げるべき主であると確認し、イエスさまの後に随いて行くという決断が現実として始まらなければならないのです。しかし、それはイエスさまを信じるようになったというだけのことではありません。イエスさまとの交わりを持つことは、イエスさまを遣わされた父なる神との交わりを持つことです。御子との交わりは父との交わりと切り離してはなりません。イエスさまは、ここで、ご自分が父なる神と一つであることを告げているのです。
  神と一つ思いのイエスさまは、《わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た》のです。35節では《光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい》と切実な思いを込めて呼び掛けて、光を信じる者は光の子になると約束されました。46節では、《わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように》と言われますが、同じ主旨です。これをさらに強めた言い方にすれば、《わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た》となります。
  その前に、《わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない》と言っておられます。これは8章11で、姦淫の女に、《わたしもあなたを罪に定めない》と言われたのと同趣旨の言葉です。つまり罪の赦しです。聞いても行なわない者が裁かれなくて済む、と言われたわけではありません。わたしは裁かないと言われたのは嘘ではありませんが、わたしは罪の赦しと救いのために来た、というのがこの言葉の真意です。
  《父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている》。イエスさまを通して与えられた戒めが命の道であるという意味です。この命令とは、直前の49節にあった、これを語れとの御子イエスさまに対する父の命令であるように思われるかも知れません。そうではなく、御子が父の命を受けて、これをせよと人々に命じられたこと、すなわち御子を信ぜよとの命令です。これに背く者は裁かれます。一方、神の御旨に従って御子を信じるなら永遠の命にあずかることができると約束されます。真の光であるイエスに絶えず照らされて、命を命じる言葉に聞きつつ、イエスさまによって与えられる命に生きる者として、この一週も歩んでいきましょう。


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