2018年5月20日  聖霊降臨祭  ヨハネによる福音書15章26〜16章4a
「聖霊を遣わす約束」
  説教者:高野 公雄 師

  《15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。》
  聖霊降臨祭のきょうの福音書は、イエスさまがいよいよ十字架へと引き渡される夜、弟子たちに語る別れの説教です。別れた後の弟子たちの心細さを慰め励ますイエスさまの言葉は、いまや最も重要な個所に来ました。それは、聖霊が遣わされるという約束です。イエスさまはこの地上を去るけれども、《わたしは、あなたがたをみなしごとはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる》(14章18)。どのようにか。《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる》(14章16)。天に上ったイエスさまは、今度は弁護者である聖霊として弟子たちのもとに戻ってきてくださる、と言うのです。
  「弁護者」という訳語は、将来弟子たちが信仰のゆえに迫害されて法廷に引き出されるときにそばにいて弁護してくれる場面が想定されますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくれる方」と受け取って、他の聖書では「助け主」、あるいは「慰め主」とか「同伴者」と訳されます。
  また、聖霊は真理であるイエスさまにわたしたちを結びつける方なので、真理の霊とも呼ばれます。《わたしは道であり、真理であり、命である》(14章6)と言われているように、真理とはイエスさまご自身のことです。イエスさまこそ神の真実の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かな頼りです。
  弁護者である真理の霊は、イエスさまがいない地上を歩む弟子たち、信仰者たちの傍らにいつもいて、イエスさまに代わって励まし、慰め、弁護し、助けてくださいます。天に戻ったイエスさまは、形は変わりますけれど、これまでと同じように、弟子たちと共にいてくださるのです。
  14章26では、聖霊のもうひとつの働きを教えられていました。《弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》。ここでは、「わたしが話したことを・・・思い起こさせる」という点が重要です。聖霊はイエスさまの教えに付すのではなく、教えられたことを思い起こさせるのです。イエスさまが歴史の中にしか出てこない過去の方ではなく、いま現に生き、現に支配しているお方として示すのが聖霊です。聖霊は、このように、人々の心に働きかけて、イエスさまが話したことを生きた言葉として聴かせるのです。「神自らが聖書を通して語られる」と言われますが、聖霊は、聖書を通して、神とイエスさまをわたしたちに出会わせてくださるのです。
  聖書の教えを繰り返して学ぶことと、聖霊が教えることとは、いわば車の両輪のように、二つで一組です。聖霊を受けたから教えは要らないと言うことはできないし、教えを深めたから聖霊は要らないとも言えません。
  また、「わたしの名によって遣わす」という点も大切です。この言葉は、第一に、遣わされた方がわたしの名を帯びており、わたしの使命を担い、わたしの言うことを言い、わたしのすることをわたしに代わってする、という意味です。聖霊は、イエスさまの再来、イエスさまの名によって来た霊なのです。第二に、わたしの名によらなければ、聖霊は遣わされなかったという事情も見なければなりません。わたしたちがどんなに必要に迫られても、聖霊自身がその必要を嗅ぎ取ってわたしたちのもとに来るわけではありません。イエスさまが父に願ってくださるとき、父はイエスさまの名のゆえに聖霊を派遣されるのです。したがって、このことは、わたしたちが聖霊の派遣を求めるとき、イエスさまの名によって遣わしたまえと祈らなければならないこと、また、その祈りもイエスさまの名によってなされることに結びつきます。
  きょうの個所に、《真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである》とありました。使徒言行録2章の記録によれば、五旬節当日のペトロの説教によって、御言葉を受け入れ、洗礼を受けた人が三千人ほどいました。彼らはペトロの証言、《あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです》(2章36)と言うのを聞いて信じました。復活を見た人の証言によって見ない人も信じたのです。もちろん、それには聖霊の証しが中心的な働きをしたわけです。ここに、見ずして信じた人によって語られた証しによって、人々は見ずして信じるという、聖霊降臨後の新しい時代のあり方が確立されたのです。

  《16:1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4a しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」》
  十字架の道を目の前にして、イエスさまは《これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである》と言います。「これらのこと」とは、この直前に語られた「聖霊を遣わす」という約束だけでなく、15章18以降に語られた「迫害の予告」をも指しています。ところが、ここでイエスさまは、弟子たちのつまずきを予告するのではなく、逆に弟子たちが「つまずかない」状態を約束します。それは、聖霊が弟子たちのところに降るという約束です。突然の迫害に弟子たちが不安と恐れと疑いに陥り、イエスさまを証しすることから、また信仰から離れることがないようにとの配慮です。
  これから、イエスさまは十字架への道を歩まれます。それは弟子たちにとっては大きな悲しみと試練です。その上に、弟子たちの中にはイエスさまを裏切る者が出ます。ここで、さらにまた、弟子たちがこれから出会うであろう、つまずかせる状況、困難の状況を予告します。それは、イエスさまの弟子たち、つまりキリスト教会が世に憎まれる、迫害を受けるということです。
  イエスさまと弟子たちに対するこの世の敵意というのは、神に敵対する勢力である「この世」の憎しみのことです。イエスさまと弟子たちに対する敵意は、《会堂から追放する》という具体的な形をとります。さらには殺す者までが出るという形にまで至ります。そのような行為を《自分は神に奉仕していると考える時が来る》といいます。
  当時、それまでユダヤ教の一分派のように考えられていたキリスト者たちが、ユダヤ教社会から明確に区別されるようになってきました。イエスさまを神の子と告白する者たちはユダヤ教の信仰の中心である会堂から追い出される、すなわち村八分になる、しかも場合によっては殺されるという状況になりました。イエスさまこそ救い主であり神の独り子であるというキリスト信者の信仰は、神への冒涜である、それゆえにキリスト教信者を迫害することこそ、神に正しく仕える道だと思っていました。
  これは何もこのユダヤ人キリスト者に対する迫害だけではありません。過去二千年のキリスト教会の歴史と世界史上において「神の名において」行われてきた愚行の歴史をも指すと言って良いでしょう。悔しいけれども、今日もなお同じように、悲しみの涙を流し試練の中を歩まなければならない人々が絶えないのが現実です。
  さて、彼らがそのように迫害するのは、《父をもわたしをも知らないから》です。弟子たちに対して、その出来事が起きたときに、驚き慌てないように、弱いわたしたちがつまずかないように、弁護者である真理の霊を遣わす、と言うのです。これらのことをイエスさまが話したのは、会堂からの追放や異端者としての処刑という事態が起こるときに、それらのことについて言っておいたことを弟子たちに、わたしたちに思い出させるためでした。
  15章27でイエスさまは、弟子たちは《初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである》、と言っていました。これから、弟子たちはイエスさまの十字架への道を、生き証人として見なければなりません。証人という言葉は後に殉教者という意味をもつようになりました。この証人が伝えるのは命の言葉です。命の言葉であるからこそ、命をかけででも伝えなければならない真理なのです。証人というのは、命の言葉の出来事に立ち会わされた人です。そこには、弁護者であり真理である聖霊が働いてくれます。わたしたちは聖霊によってイエスさまとの結びつきを与えられ、その与えられた恵みを証しするのです。命の言葉の出来事とは、まさしくイエスさまがわたしたちの罪のために十字架にかかり、復活されたことです。その出来事を伝えるのが、教会です。教会は聖霊の注ぎを受けたイエス・キリストの体です。わたしたちには悲しみや苦しみ、試練は確かにあります。しかし、それは聖霊が傍らにいてくださるから、乗り越えられます。わたしたちの歩みは聖霊なる神の御手の中にあることに信頼しましょう。


inserted by FC2 system