2017年12月17日  待降節第三主日  ヨハネによる福音書1章19〜28
「洗礼者ヨハネの証し」
  説教者:高野 公雄 師

  《19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。》
  洗礼者ヨハネとは、イエスさまが登場する直前に、ヨルダン川の近くで悔い改めを求める説教をし、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていた人です。この活動が評判を呼び、ヨハネのもとにユダヤ全土から続々と人々が集まって来て、洗礼を受けていました。ヨハネによる福音書には記されていませんが、他の三つの福音書では、イエスさまご自身も、ヨハネから洗礼をお受けになったことが書かれています。
  当時のユダヤにおいて、洗礼はそれほど珍しいものではありませんでした。すでにヨハネがする以前から、洗礼は行われていたのです。ただし、それは、異邦人がユダヤ教に改宗する場合に行われるものであって、すでにユダヤ教徒である者が受けることはありませんでした。なぜなら、ユダヤ教徒はすでにアブラハムの子であり、救われることとなっており、清い者であり、改めて洗う必要などないと考えられていたからです。ところが、洗礼者ヨハネはユダヤ人にも洗礼を施していたのです。それは、「ユダヤ人だから救われる。アブラハムの子孫だから救われる。それは違う。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、まことに神の御前に悔い改めなければ救われることはない」。これが洗礼者ヨハネの主張だったからです。彼は、ユダヤ人にも悔い改めを求め、洗礼を授けていたのです。ユダヤ人にまで悔い改めを求め、洗礼を授ける洗礼者ヨハネは、神殿を中心とするユダヤ教の当局者たちにとって、自分たちの教えや権威を否定する、とても危険な人物に見えました。しかも、厄介なことに、民衆はヨハネを強く支持しています。当時、ローマ帝国に支配されたユダヤ人を解放し、独立国家を復興する英雄として、救い主、メシアを待ち望む風潮がありました。ルカ3章15には、《民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた》と記されています。
  祭司やレビ人たちがユダヤ教の当局から遣わされ、洗礼者ヨハネのもとに来て、「お前は何者か」と尋問します。上記のような状況を考えると、《あなたは、どなたですか》という翻訳は丁寧すぎます。洗礼者ヨハネは、この問いに対して明確に《わたしはメシアではない》と答えました。
  尋問する者たちはさらに続けます。「だったらエリヤか」。エリヤは、王国時代に活躍した大預言者です。イスラエルにバアルという異教の神を持ち込んだアハブ王とその宗教に警告し、迫害されながらも抵抗しました。彼はやがて、死なずに、火の馬車で天に上って行きました(列王記下2章11)。マラキ書3章23〜24には、主の裁きの日が来る前にエリヤがふたたびやって来ると預言されています。メシアでないなら、メシアの前に来ると預言されているエリヤか、と問うたのです。これに対しても、洗礼者ヨハネは「違う」と答えました。さらに尋問者は、「あの預言者か」と問います。「あの預言者」というのは、申命記18章15に約束されている「モーセのような預言者」のことです。モーセとは、エジプトで奴隷であったイスラエルの人々を解放したリーダーでした。やはりユダヤ人の苦境の際に現れると期待されていました。しかし、洗礼者ヨハネはこの問いも否定したのです。
  そこであらためて、《それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか》と尋問します。ここの「返事をする」は、正式の裁判で尋問されて返答することを指す言葉です。「返答次第ではただではおかないぞ」という脅しの意味がこめられています。この言葉は、ピラトが官邸内へ戻って、イエスさまに《お前はどこから来たのか》と尋ねたときに、《イエスは答ようとされなかった》(ヨハネ19章9)とある個所の「答える」と同じ言葉です。
  ヨハネはイザヤの言葉を引用して答えます。《わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と》。他の福音書ではヨハネは「荒野で呼ばわる者」と言われているのですけれども、この福音書では、「荒野で叫ぶ者」でさえない、とこの考え方を拒否します。そして自分は、その「荒野で叫ぶ者」の「声」なのだと言っています。声は、あることを伝えさえすれば目的を果たします。つまり、自分は跡形もなく消えていく存在だ。ただ、わたしは伝えなければならないことがある。指し示さなければならないお方がいると言ったのです。洗礼者ヨハネの本当の偉大さ、強さは、自分がこの「荒れ野で叫ぶ声」というまことにはかない存在であることを知り、それで良しとしたところにあるのだと思います。
  「お前は何者か」と問われて、ヨハネは「わたしは声だ、神からこのように言いなさいと命じられた者だ」と答えます。きょうの個所には、多くの裁判用語が用いられています。「証し(証言)」(19節)、「質問(尋問)」(19節)、「公言(告白)」(20節)などもそうです。とくにこの「証し」という言葉は、たとえばヨハネの黙示録などでも何度も出てきますけれども、「殉教する」という意味を持つようになります。つまり、ヨハネはこの神の言葉を自ら命がけで、証しする者として自分を理解しているのだということなのです。
  洗礼者ヨハネが自らを声だと言ったとき、その声とはただの声ではありません。自分の後から来られるまことの救い主、イエス・キリストを指し示す声であるということです。自分の後から来られる方は、わたしが《その履物のひもを解く資格もない》ほど大いなる方だ。まことの神であり、まことの救い主だ。そう言うのです。履き物のひもを解くのは、奴隷の仕事です。ヨハネは、後から来られる救い主、キリストに比べるならば、奴隷以下だと言うのです。この方を指し示すためにわたしは来た。そのことを彼は知っていたのです。
  自分が何者であるかを知る。それは、自分が何のために生まれてきたのかを知るということでしょう。自分が今生きているのはこのことのためである、ということを明確に言いき切れるということであります。ヨハネはそれが言えたのです。
  あなたは何者か。この問いへの答えはそれほど簡単ではありません。しかしわたしたちには、洗礼者ヨハネと同じように明解な答えが与えられています。わたしもまたキリストを証しする者です。わたしはキリスト者です。わたしのために生き、わたしの罪のために十字架にかかって死んでくださり、わたしが新しく生きることができるために甦り、今も共に生きてくださるキリストの愛を伝える者です。この答えは、わたしたちが何をしていても、どのような人生の局面を生きているときでも、わたしたちに人生の意味と目的を教えます。わたしたちがなすべきことを教えてくれます。わたしたちは、神に造られ、神に救われ、神に生かされている者です。イエスさまをあがめ、イエスさまの栄光のために働き、イエスさまの御業に仕える。これがわたしたちの人生です。これはわたしたちの人生の一部ではありません。すべてです。
  自分が何者であるかを知るということは、自分の心の中をいくら探っても分からないことです。わたしたちの中には、自分の人生の意味を決定付けるものは何もないのです。これは、上から与えられなければなりません。わたしたちを造ってくださった方、わたしたちにこの世の人生を与えてくださった方、この方だけがそれを知っており、わたしたちに教えてくれることができるのです。神の言葉を聞くことで、新しい自分を発見できるのです。
  わたしたちはキリストの命に与り、永遠の命の希望に生きる者です。人が自分をどう評価しようと一切関係なく、神はわたしたちを愛し、わが子よと呼んでくださっている、この愛と恵みの中で、わたしたちもキリスト者として生き切りたいと思います。自分にはこんなに喜んで生きることができるようになったのだということをこの世界に証しすることができることこそが、神がわたしたちに望んでおられることです。この愛と恵みを人と分かち合いながら歩んで、言葉と行いでイエスさまを証しすることができるよう祈りましょう。


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