2018年4月15日  復活後第二主日  ヨハネによる福音書21章1〜14
「ガリラヤ湖畔の顕現」
  説教者:高野 公雄 師

  《 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった》。
  弟子たちはすでにエルサレムで復活のイエスさまと出会い、聖霊を与えられ、罪の赦しを告げる者として遣わされました(20章19〜23)。それなのに、どうしてガリラヤに戻ったのでしょうか。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖の別名です(6章1参照)。戻った理由は、一つには、マタイ28章10で、復活のイエスさまはマグダラのマリアたちに《わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる》と言われました。マルコ16章7にも同様の言葉があります。つまり、イエスさまがガリラヤで会うと言われたから、弟子たちはガリラヤに来たということです。
  弟子たちはガリラヤに来たものの、何をしたらいいか分かりません。目の前には湖があり、ペトロは元漁師です。ペトロは《わたしは漁に行く》と言い出します。他の弟子たちも一緒に行くと言います。彼らは舟に乗り込んで漁に出ました。しかし、彼らはその夜何もとれませんでした。
  《既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた》とあります。イエスさまはこの時、弟子たちが夜通し漁をしている間中、網を打とうがどうしようが何もとれないという虚しい作業をしている間中、ずっと立って見ておられたのではないでしょうか。
  わたしたちは、この時の弟子たちと同じように、何をやっても成果が上がらない、そういう徒労感を味わうことがあると思います。イエスさまはどうしてことを起こしてくださらないのか。そう呟くことだってあります。しかし、イエスさまはわたしたちのすべてを見ておられるのです。
  弟子たちは気づきませんでしたけれども、イエスさまは岸から見ておられました。そして、イエスさまの方から声をかけられました。《子たちよ、何か食べ物があるか》。一晩中漁をしていたけれど何もとれなかったのですから、《ありません》と答えるしかありません。この言葉に、何もかもうまくいかない弟子たちの姿が表れています。すると、イエスさまは《舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ》と言われます。
  これと同じことが以前もありました。ルカ5章に記されている、ペトロが召命を受けた時です。夜通し漁をして何もとれなかったペトロに、イエスさまは《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》と言われました。ペトロは《先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》と答えて網を降ろしてみると、おびただしい魚で網が破れそうになりました。ペトロは驚き、《主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです》と言いました。しかし、そのペトロに向かってイエスさまは、《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる》と言われたのでした。イエスさまと最初の出会いの時です。
  この時も、網を打ってみると、魚があまりに多くて網を引き上げることができませんでした。ペトロはこの時、イエスさまと最初にお会いして召し出された時の言葉を改めて思い起こしていたでしょう。《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる》。復活のイエスさまからの召命を、ペトロはこの時改めて受け取ったに違いありません。
  これが、ガリラヤに帰った二つ目の理由、原点に戻るということです。ペトロたちはガリラヤでイエスさまと出会い、召されてイエスさまと共に生活し、エルサレムにまで行きました。そのイエスさまはエルサレムで十字架につけられて死んでしまって、すべてが終わったと思った。しかし、復活されたイエスさまが、あの最初に出会った場所で、同じ奇跡をもってわたしに出会ってくださった。これからわたしは、人間をとる漁師として旅をしていく。復活したイエスさまと共に旅をしていく。肉体の目をもって、手で触れて確認するあり方ではなく、しかしそれと同じように確かに、復活のイエスさまがわたしと共にいてくださる。そのことをペトロは受け取ったに違いないのです。
  わたしたちの信仰の歩みにおいても、この原点に戻るということはとても大切です。わたしたちは、信仰者として歩んでいく中でいろいろな経験をしていきます。聖書の知識も教理的な学びも身に付けるでしょう。しかし、あのイエスさまとの出会い、あの洗礼を受けたころの生き生きとしたイエスさまとの交わり、熱い思い。それは決して失われてはならないものです。弟子たちは、エルサレムにおいて復活のイエスさまと出会いましたけれど、具体的に何をしたら良いか分からなかったのでしょう。その弟子たちにガリラヤでイエスさまは出会われ、ガリラヤで初めて出会った時のことを思い起こさせ、これから何をすれば良いのかをはっきり示されたのです。それは、復活のイエスさまと共に生きるということです。ガリラヤからエルサレムまでイエスさまと共に旅をしたように、今度は復活のイエスさまが共にいて一緒に旅をしてくださる。だから、弟子たちは人間をとる漁師としての旅をすれば良い。復活のイエスさまが共にいてくださるのですから、恐れることはないのです。

  《7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である》。
  「主」という用語は、復活したイエスさまに対する初代教会の信仰告白の言葉です。《イエスは主である》(Tコリント12章3)。
  さて、弟子たちが陸に上がってみると、炭火がおこしてありました。そして、その上に魚がのせてあり、パンもありました。イエスさまが朝食の用意をしてくださっていたのです。ここでイエスさまは、弟子たちに説教をしたのではありません。朝食を用意したのです。イエスさまは、弟子たちにいつも必要な養いを与えてくださいます。イエスさまは霊の養いをわたしたちに与えるだけではありません。心にも体にも、必要な養いを与えてくださいます。この復活の食事は、最後の晩餐や五千人の食事とともに、聖餐の形で引き継がれてきました。弟子たちは聖餐に与るたびに、復活のイエスさまがここにおられるということを確認してきたのです。復活のイエスさまは、ここにおられます。聖霊なる神として、わたしたちに御言葉を与え、信仰を与え、聖餐に与らしめて、共におられることを明らかに示してくださるのです。
  復活のイエスさまが弟子たちに現れたのは《これでもう三度目である》とあります。どうして、何度も現れなければならなかったのでしょうか。それは、わたしたちの信仰というものがいかに脆く、弱いのか、わたしたちの罪というものがどれほど頑ななのかということを示しているのだと思います。
  イエスさまは、一度でダメなら二度、二度でダメなら三度と、わたしたちに本当に分からせてくださるために何度でもその姿を現されるのです。わたしたちの信仰の歩みとは、この何度も示されるイエスさまの恵みの御業によって支えられ、導かれ、守られていくのです。わたしたちが自分の力で何とか処理をした時、それは夜通し漁をしても何もとれなかったように、徒労に終わることが少なくありません。しかし、その徒労と思える労苦をするとき、すでにイエスさまは共にいてくださり、その一切の歩みを見ておられ、必要な養いを備えて待っていてくださるのです。このイエスさまの養いを受けて、わたしたちは人間をとる漁師として歩んでいくのです。イエスさまに愛され、イエスさまに選ばれ、イエスさまに信仰を与えられた者は誰でも、この復活のイエスさまと共に生きるのであり、この復活のイエスさまと共に生きる者は、復活のイエスさまの恵みの御業を証言する者として立てられているのです。イエスさまと共に歩んでいきましょう。


inserted by FC2 system