2018年4月22日  復活後第三主日  ヨハネによる福音書21章15〜19
「ペトロへの委託」
  説教者:高野 公雄 師

  《15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい》。
  きょうの個所は、先週の礼拝で読んだ21章1〜14の続きです。先週は、復活したイエスさまがペトロたちのために食事を準備してくれました。ですから、今週は、《食事が終わると》と始まっています。ペトロたちは飢えや渇きが満たされ、恐れや不安が癒されたことでしょう。そうされてこそ初めて、イエスさまからの問いかけを、偽りや飾りのない心で受け止めることができます。人は、自分が悪いことをしたにもかかわらず相手が自分のことを赦してくれるときに、最も強く自分の罪深さと相手から与えられる恵みを感じることができます。きょうの個所におけるペトロも同じなのではないでしょうか。
  イエスさまはここでペトロに対して、《この人たち以上にわたしを愛しているか》と問われました。このイエスさまの問いは、ペトロが三度イエスさまを知らないと言った出来事と深く結びついていると思います。ペトロは《たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしはつまずきません》と豪語したところ、イエスさまは、《はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう》と言われました(マルコ14章29〜30)。そして、その通りになってしまいました。
  イエスさまの問いによって、ペテロは、「あなたは自分の弱さを学んだよね。もう他人より自分を上に置こうなどとしないよね」、と問われているように思ったことでしょう。わたしたちにとって、自分の傲慢さ、弱さを見せつけられることは辛いことですが、それは同時に、イエスさまの救いの大事な意味に気づかされる恵みの時でもあるのです。
  イエスさまは、かつてその足に接吻して香油を塗った罪深い女について、《この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は愛することも少ない》(ルカ7章47)と言われました。この時のペトロはまさにこれがあてはまるのではないでしょうか。《はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです》と答えたとき、ペトロにはもう寸分も自分を誇る思いはなく、「こんな自分を赦してくださったお方のために、すべてを献げてお仕えしていこう」、そういう思いだけが満ちていたに違いありません。
  そう答えたペトロにイエスさまは、《わたしの小羊を飼いなさい》と命じられます。イエスさまは、《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる》(ヨハネ10章11)と言われました。ここでイエスさまは、ご自分が十字架の血をもって罪から救い出したご自分の羊を、ペトロに託しました。ただし、ペトロに牧者の務めを委託したのは、彼がその資質を具えているとか、彼がその地位にふさわしいからではありません。むしろ彼が否認したことを悔い改めることによって弟子として認められた、すなわち、彼の人間的な弱さの自覚こそが、務めを委託する根拠になったのです。このことは、あくまでもイエスさまからの弱いペトロへの恵みから出ていることです。イエスさまはペトロに牧者の務めを与えるにあたり愛を問いました。このイエスさまを愛するということにおいて、すべてはイエスさまが育んでくださるのです。そして、イエスさまを愛する者は、イエスさまの羊を愛さないではいられないのです。そこに、愛の交わりが形作られ、イエスさまの愛によってうち立てられるキリストの体としての教会が建っていくのです。

  《18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた》。
  キリスト教の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦64年ころにローマで殉教の死を遂げました。キリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられるとき、自分はイエスさまと同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、それではと、頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。《あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる》。このイエスさまの預言は、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、ペトロが十字架刑に処せられることだと分かります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、何のことか分かりにくいものだったでしょう。福音書記者ヨハネはペトロの処刑の知らせを耳にしたとき、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活したイエスさまがペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的に分かったのです。ヨハネはいったん20章で書き終えましたが、ペトロ殉教の報に接して、どうしてもイエスさまの預言を書き記さないではいられなくなって、21章を付け加えたのでしょう。
  なお、ペトロの離反が予告される場面で、ペトロが《たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません》(マルコ14章31)と言い切っていることも、きょうの個所でのペトロへの殉教予告と繋がっています。ペトロの決意は、結局その通りに成就することになります。このように、ここでは、ペトロの弟子復権が同時に牧者の務めへの委託と重ね合わされているのです。
  さて、ペトロの殉教の死は、《神の栄光を現す》ものでした。もちろんのことですが、天の父なる神の栄光というものは、被造物であるわたしたちの業績や達成に左右されるものではありません。わたしたちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然としてすでに栄光に満ちたお方です。それならば、わたしたちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか。それは、動かすことのできない神の真理を、わたしたちが自分の生き方を通して人前で証しし明らかにすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、わたしはこのような者であると次の三項を告白して答えることです。その項点とは、まず、わたしは、天地とそこにあるすべてのものを造られた神に造られた者であること。次に、わたしは、その造り主が送られたひとり子イエス・キリストの身代わりの死によって罪と不従順の奴隷状態から解放された者であること。三つ目は、わたしは、この世の人生の向こうで永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいる者であること。この三項を臆することなく、落ち着いて答えることです。何も問われないときは、そのような者としておおらかに生きるだけです。
  このような神の真理に従ってまっとうに生きていこうとすると、いろいろなことに遭遇します。神の真理を取り下げなければ命はない、という時代であれば、この世の人生の終わり方は殉教しかないでしょう。ペトロは自分の生きた時代状況のなかで、駆け引きのない生き方を貫いてこの世の人生を終えたのでした。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。わたしたちの生きている時代状況において神の真理を取り下げない生き方をしたら、どんなことに遭遇するでしょうか。命を落とすことはないでしょうが、それでもいろいろ不自由を感じたり窮屈な思いをすることがあるのではないかと思います。でも、それが神の栄光を現すことになるのです。
  きょうの個所が、《わたしに従いなさい》で終わるのは、とても大事な点です。この御言葉は、21章のペトロと愛弟子の両方に共通する中心的なテーマです。イエスさまを愛することも、イエスさまの羊を養うことも、イエスさまのみ跡をたどって殉教することも、愛弟子のように最期まで生き残ってイエスさまの証しを立てることも、すべてが「イエスさまに従う」ことただ一点に尽きるからです。これが、主の羊とその羊飼いたちにイエスさまが求めておられる最も大事なことです。ところが、わたしたちはこの一番大事なことを一番後回しにして、まず自分の願望が達成されることを求めてはいないでしょうか。「あなたはわたしを愛するか」という問いかけと、「わたしに従いなさい」という語りかけをしっかりと聞くこと、これがきょうの御言葉がわたしたちに伝えようとしている最も大事なことだと思います。


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