2017年12月31日  降誕後主日  ヨハネによる福音書2章1〜12
「カナの婚礼」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。》
  当時の結婚式は、このように行われていました。まず、花嫁は身を清めて、白衣をまとい、宝石などを身につけ、ヴェールをかぶります。そして花嫁の帯を締めて式に臨みました。一方、着飾った花婿は友人親類などに伴われて花嫁の家に行き、花嫁は両親の祝福を受けて、花婿に渡されます。そして二人は花婿の家に行き、そこで祝宴が開かれます。宴に招かれることは大変名誉なことと考えられました。そこでは祝辞が述べられ、音楽や踊りなどがにぎやかに行われます。それは夜まで続き、そして次の日の朝からまた始まるのです。長いときには一週間も続いたといわれています。
  けれども、福音書はこうした結婚式の様子については、ほとんど関心がないようで、誰の結婚式だったのかでさえ沈黙しています。語られているのは、当日招かれた人の中に、イエスさまの母とイエスさま自身、そして弟子たちがいたということであり、そこで起こった一つの事件です。しかも、華やかで楽しげな結婚式の舞台裏で人知れずに起こった事件の一部始終なのです。
  どういう手違いが生じたのか、婚宴の途中でぶどう酒が足りなくなってしまいました。このままではせっかくのお祝いの席も後が続かなくなって興ざめに終わってしまいます。祝宴を催している新しいカップルにとっても、その家族にとっても、また給仕長にとっても、恥ずかしい事態になるでしょう。にぎやかな宴会の一方で、舞台裏のお勝手では給仕係の者たちや調理係の者たちが頭を悩ませています。
  イエスさまの母もこの祝宴の準備に関わっていたのでしょう。この窮状をイエスさまに告げます。《ぶどう酒がなくなりました》。ところがイエスさまはこの母マリアからの語りかけに対して、じつに素っ気ない答え方をしています、《婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません》。イエスさまは親子のような肉によるつながりの中での、命令や要求に従うという形でご自身を現すことはしなかったのです。母の言葉には「あなたがなんとかしてあげたらどうですか」という暗黙の要求も含まれていたことでしょう。イエスさまはそうしたわたしたちの願いや望みを実現してくださる神としてご自身を現すことをいったんは拒否します。「わたしの時」というのは、イエスさまが救い主としてその栄光を明らかに現される時のことであり、力ある御業が行われる時であり、十字架と復活の時のことです。人間が思うような形で神はご自身を現すのではない、神がよしとされる時と所に現される、それがわたしたちの信仰です。
  それゆえに、わたしたちが信仰を持って歩む時、人間的には理解できないような苦しみや悩みに直面することもあります。「神さま、いったいなぜですか」と訴えたくなるようなことも起こり得るのです。けれどもそこでわたしたちが祈る時、このお方と向き合い、語りかけてくださる神の言葉に聴き、このお方をよりよく知り、その深みにある思いを知らされていくという出来事が起こるのです。祈りとは「生ける神との談話」だと言われるのも、この意味を含んでいるように思えます。このお方と語り合い、その思いをより深く知らされ、どんな中にあっても、このお方を神として歩むことが、結局はもっとも揺るぎのない、確かな歩みであることを、わたしたちは祈りの中で知らされるのです。母マリアはこの直後に、召使たちに言っています、《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください》。そこには「神がご自身のよしとされるところに従って、ことをなしてくださるように」という絶対的な信頼へと母の心が導かれていった様子が感じ取られます。
  さて、そこに清めに用いる石の水がめが六つありました。この水は、律法の定めにしたがって、この結婚式に来た人たちが手を洗いあるいは足を洗うために家の入り口に置いてあったものです。結婚式にたくさんの人が来るので、たくさんの水がめが用意されていたのでしょう。普通はこんなに用意されてはいません。それらは二ないし三メトレテス、すなわち80から120リットル入る、相当大きなものです。それが六つ分といえば、ものすごい量です。
  イエスさまは自分にすべてを委ねきっている信頼を退けることはしません。イエスさまは召使たちに命じられます、《水がめに水をいっぱい入れなさい》、《さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい》。すると、この瓶から汲み出された水はすべて極上のぶどう酒に変わっており、そのとびきりの味は宴会の世話役が思わず花婿を呼んで問いただすほどであったといいます。勝手裏で起こった奇跡です。宴会場では、何事もなく祝宴が続いていったことでしょう。けれども、その背後では、驚くべき神の御手が働いていて、その営みが支えられ、守られていたのです。弟子たちはこの奇跡を、イエスさまが誰であるかの「しるし」として見て、イエスさまを信じました。
  わたしたちの日々のささやかな営み、何気なく、当たり前のように思っているかもしれない歩みの中にも、父なる神の深い配慮と支えと守りがあるのです。そしてそこに満ち溢れている恵みは、わたしたちがお返しすることができるたぐいのものとは違う圧倒的な恵みです。わたしたちが救い出され、日々新しく救い出されているところの罪は、自分で処理できるような簡単なものではありません。もしそうだったとしたら、ユダヤ人たちが清めに用いていた瓶の水だけで用は足りていたはずです。そうではなくて水がぶどう酒に変わる必要があった、そこが大切なポイントです。清めの水を用いて自らを清くしようとする営みが破れるところ、人間が自分の力でもって清く生きようとする努力の崩壊するところ、そこに「イエスさまの栄光」が現れ出るのです。
  「清めの水」は、ここではユダヤ教律法の究極の姿を表している一方、「ぶどう酒」は、イエスさまにおいて実現した神の救いの恵みを象徴的に表わしています。水がぶどう酒に変えられたということは、イエス・キリストの十字架の血による贖い、罪の赦しにすべての人があずかるということです。そういう神の恵みに生きる信仰の世界の始まりが、ここで示されたのです。
  「清めに用いる水がめ」そのままでは、わたしたちを救い出す力は持っていません。この水がめは「極上のぶどう酒」、すなわちイエスさまの血潮をその内にたたえなくてはなりませんでした。このカナで行われた最初のしるしは、イエスさまの十字架の出来事をすでに指し示しています。イエスさまはこの時すでに、わたしたちの罪を引き受け、神の前に担い切る思いを確かにされていたのです。何がお勝手裏で起きているか何も知らずに、食い、飲み、嫁いだり、めとったりしているわたしたちの姿を見つめ、愛し抜くことを決意しておられたのです。イエスさまはわたしたちを神の国の喜びの食卓に招くことを願っておられました。
  このことを知らされる時、わたしたちは聖餐の恵みを改めて覚えます。それは、永遠の命にあずかる喜びの宴に、イエスさまこそが招き手となって、わたしたちを呼んでくださっているということです。イエスさまは、その血潮によって打ち立ててくださった新しい契約にわたしたちが目を開くよう求めておられるということです。じつは、あの祝宴を準備したのは新しく結婚する二人でもなく、宴会の世話役でもなく、まことにイエスさまご自身だったのです。まことの祝いの食卓を整え、わたしたちを招いておられるのはイエスさまご自身です。御国の祝宴を、教会は聖餐において味わい始めているのです。それがイエスさまの招いておられる食卓です。わたしたちが信仰の目を開かれ、イエス・キリストの招きを知り、信仰を告白してその招きに応える者とされること、そのことをイエスさまは今日も熱心に待っておられます。いつも新しくイエスさまの恵みの言葉を聴き、神の臨在の輝きを仰ぐ日々へと、わたしたちを招いてくださっているのです。


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