2018年5月27日  三位一体主日  ヨハネによる福音書3章1〜12
「ニコデモとの対話」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。》
  きょうは、ニコデモというユダヤ人の指導者とイエスさまとの対話の個所です。この話の直前に、こう記されていました。《イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ・・・るからである》(2章23〜25)。そして、このニコデモの話しに続いているのですから、このニコデモという人は、ここではあまり当てにならない信仰の代表者として描かれているわけです。ここでは、その人々の信仰というのはどういう信仰であったのかが論じられるということです。
  ニコデモは《ユダヤ人たちの議員》でした。ユダヤの最高法院(マタイ26章59)は70人の議員と大祭司で構成されていました。ニコデモはその議員だったのです。したがって、聖書の中にでてくるファリサイ派の代表と言ってもよい人でした。最高法院は、イエスさまも、そして後にはペトロもパウロもその法廷の前に立たされるところです。それなら、このニコデモはイエスさまを目の敵にしていたのかというと、そうではありません。イエスさまに対してそれなりに良い評価をしていたのです。彼はこう言います。《この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことはできません」》(2節)。
  彼が夜に訪ねてきた理由については、いろいろな説明があります。昼間に来ると、他のパリサイ派の仲間たちに見つかってしまうので、人に見られないようにするためだったのではないかとか、ラビと呼ばれた律法の先生に質問に行くときは、夜にいくのが普通のことだったとか。けれども、明らかなことは、このニコデモのことを、このヨハネ福音書は夜の人として描いているということです。ヨハネ福音書は光と闇、霊と肉、善と悪というように二元的な見方で描いています。ニコデモはイエスさまに対してとても好意的で、かなりイエスさまを認めているのですけれども、ヨハネはこの人は夜に属する人だとして描いているのです。
  いまの日本にも何かを神と信じる人は多いと思います。けっこう、「わたしは神さまを信じている」という人に会います。けれども、肝心なのは、ただ、漠然と神さまを信じることではなくて、どのようなお方を神と信じるのかということです。その意味では、このニコデモも、現代の日本人と同じような信仰の持ち主であったということができるのかもしれません。きょうは三位一体主日です。イエスさまとニコデモとの対話から、まことの神はどなたであって、どのように出会うことができるかを学びたいと思います。
  ニコデモの言葉は、「先生、あなたが神さまを通して働いていることは分かりますよ」と言ったに過ぎないのです。それで、イエスさまはこう答えました。《はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》(3節)。このイエスさまの短い言葉には、大事な意味がこめられています。一つは、このニコデモの信仰に対する答えです。「あなたの信仰、あなたの生き方では、神の国を見ることはできない」と、はっきりとその信仰を否定しました。イエスさまは、「それは信仰とは言わない、それでは、聖書が語る神の国を見ることはできない」と言っているのです。
  そして、このイエスさまの言葉の中のもう一つの大切な言葉は、《人は、新たに生まれなければ》、です。ニコデモは、神の国、つまりわたしたちが良く使う「天国」のことですけれども、天国というのは将来入るところだと思っていたのです。これについても、今日でも、ほとんどの人が同じように考えていると思います。死んでから、天国の住人として新しく生まれると考えているのです。けれども、イエスさまは、天国に入るのは将来のことではなくて、いま、まず人が新しく生まれることによって、神の国、天国の住人になるのだと言われたのです。
  ですから、ニコデモは4節で、「人は一度生まれると、あとは年をとっていくばかりなのに、どうして、もう一度赤ちゃんからやり直せるのか」、と疑問を投げかけます。それで、イエスさまの、《だれでも水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない》という5節以降の言葉に繋がっていくのです。
  このニコデモの思いは、わたしたちにも良く分かるのではないでしょうか。人は年老いていく一方で、もう一度、自分の人生を新しくすることはもはやできない。そんな、空しい気持ちになっていくのが当然という中に生きているのがわたしたちです。確かに、神がいないならば、神が生きて働かれることがなければ、年をとってから生まれ変わるなどということはないと言っても良いでしょう。《肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である》(6節)とイエスさまは言います。善行や禁欲などによるファリサイ派としての義人となること、それは人間のやることで、どこまでも肉の業に過ぎないのです。肉の業で神の国に入ることはできません。神は霊であり、神の国は霊の国です。ですから、霊によって新しく生まれなければ、神の国の住人にはなれないのです。
  けれども、イエスさまはそこで言います。「人は、水と御霊によって新しく生まれることができるのだ」と。人間が生まれ変わる、神によって新しくされるのに、年齢も性格も生い立ちも関係ないことです。わたしたちが神によって変えられることを求めさえするならば、聖霊が働いてくださり、信仰を与えられ、洗礼を受けようという思いが起こされます。神は、わたしたちを根本から生まれ変わらせて、神の支配の中で生きることができるのです。
  ですから、この7節以降で、イエスさまはもはや、ニコデモひとりにではなくて、「あなたがた」という複数に答えているのは、ヨハネにしてみれば当然のことです。あなたも、あなたがたも、新しく生きることができる。この世界に縛られていきるのではなくて、神の国に、神に見守られながら生きることができるのだ、とイエスさまはここでわたしたちを招いているのです。
  ニコデモにとって、そして現代に生きるわたしたちにとって、このイエスさまの言葉は、まさに福音です。そのように生きることができるなた、どんなにすばらしいことでしょう。ですから、尋ねたのです。《どうして、そんなことがありえましょうか》(9節)。
  イエスさまは答えます。この地上でさまざまなことに思い悩みながら、地上からいくら沢山の問いを投げかけたとしても、その問題にかかりきりになっていたら何も見えないでしょう。イエスさまは天にいて、そこから下ってきたのだから、天上のことを語ることのできるお方です。そのイエスさまを仰ぎ見るならば、そこに信じる道がある、そこに永遠の希望があるのだ、と答えたのです。つまり、イエスさまの中に、わたしたちがこの世界でもつ、さまざまな思い悩みの解決があるのだと、イエスさまは答えてくださったのです。
  この世界にはさまざまな問題があります。けれども、イエスさまが支配してくださる神の国に生きるときに、そこに、イエスさまの豊かな慈しみがあることを数えることができるはずです。
  きょうの福音書は、この世界は死に支配された絶望の世界なのではなくて、イエスさまがそれを新しくしてくださる世界であることに目を留めるようにと呼びかけています。わたしたちは、このイエスさまを信じているのです。このイエスさまから新しいいのちを与えられるのです。わたしたちは新しく生きることができる者として、この世界の中で、それでも望みを見出して、生きることができる者とされるのです。


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