2018年3月11日  四旬節第四主日  ヨハネによる福音書3章13〜21
「イエスとニコデモの対話」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」》。
  過越祭が近づく中、イエスさまはエルサレムに上り、そこで神殿が商売の場にされているのを見て、犠牲の動物を売っている人や両替を営む人たちを追い出します。しかも、《この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる》(2章19)と言い放ちます。この言葉もまた、神殿の当局者や律法学者たちには神殿を真っ向から否定する言葉として聞こえます。自分たちの民衆を支配するあり方を否定し、加えて神を冒涜するようなことを公然と口にしている、そんなイエスさまに彼らは殺意を抱きます。けれども、そうした者たちの中に、他の人たちとは少し違ったことを感じている人がありました。それがニコデモです。このニコデモはファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員でした(3章1)。当時のユダヤ社会では最高位の階級の人です。周りの同僚はイエスさまを、いつかなんとかしてやろうと相談を繰り返しています。しかし、彼はイエスさまが説いている「永遠の命」、「神の国」とは何であるのか、一度直接会って聞いてみたいと思うようになったのでしょう。ニコデモは、直接イエスさまを訪ねることにしたのでした。
  ある夜、訪ねてきたニコデモに対して、イエスさまはすぐに核心に入って告げます。《人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》(3節)。「新たに生まれる」ことは、ユダヤ人であり、律法に忠実なニコデモにも必要なことでしょうか。ニコデモは《もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか》(4節)、と否定的に問い返しをします。そこから「新たに生まれるとは」、という問答が始まります。
  《どうしてそんなことがありえましょうか》(9節)と問い返すニコデモに、イエスさまは天からのまなざしに目を向けるように促します、《天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない》。イエスさまが「天から降ってきた者」であるということは、この福音書の核心です。イエスさまこそ、「天上のこと」を地上の人間に語ることができるお方です。そして、イエスさまは天から降ってきて、やがて天に帰るお方です。次に、その出来事の内容が「人の子は上げられる」というで語られます。
  《そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない》。これは民数記21章4〜9の出来事を背景としています。出エジプトを果たしたイスラエルの民が、旅の途中で神とモーセに逆らってつぶやきました。《なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます》。すると、神は炎の蛇を民に送り、多くの民がその蛇にかまれて死んでしまいます。その時、モーセは神に執り成しの祈りをささげ、神から、青銅の蛇を一つ作り、それを旗竿の先に掲げるように言われました。そして、これを見上げた者は、蛇にかまれても死ななかったのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、この出来事を指しています。イエスさまは、このモーセによって掲げられた青銅の蛇に御自分をなぞらえ、「人の子」つまりイエスさま御自身も上げられなければならないと言うのです。
  イエスさまが十字架の上に上げられることによって、イエスさまを信じる者が「永遠の命を得る」ことになるのです。ここで「永遠の命を得る」というのは、この世界を超越した「永遠」を指すのではありません。地上での「人の子」イエスさまが神から遣わされた人であることを「知る」ことによって「すでにその命に与っている」こと、その状態は肉体が滅んでも失われることがないことを指すのです(17章3/Tヨハネ5章11〜12節)。ですから「永遠の命」とは、この地上にありながらも「人の子イエスと共に歩む」その歩みにおいて霊的に実現するのです。イエスさまと共に歩むその歩みにおいて、その人自身もイエスさまの命に与るのです。「永遠の命」は、長さではなく質のことであり、それもイエスさまの御霊にあって「互いに愛し合う」愛において現われることです(13章34〜35節/15章12〜14節)。
  前の口語訳聖書では、イエスさまの言葉は15節で終わって、16節からは福音書の著者の言葉とされていました。けれども、新共同訳では、この16節以下21節までも含めて、すべてイエスさまの言葉としてとらえ、同じカギ括弧の中に入れています。原文は、白文のように、点や丸や括弧などの区切り符号が使われていないので、どちらともとれるのです。代々の教会は、あの有名な16節の御言葉も、福音書の著者の解説ではなく、イエスさまご自身の言葉だとして読んできました。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》と、イエスさまが父なる神の御心を代弁しているのです。このわたしの十字架と復活、そして天へ上げられることを通してのみ、あなたがたは裁きを免れ、闇から光の中に移されるというのです。宗教改革者マルチン・ルターはこの16節のみことばについて、「これは、聖書の聖書、また小さき福音書である」と言いました。この短い言葉の中にキリストの救いというものが凝縮されていると言うのです。
  これをさらに短くすれば「神は愛なり」となりますが、これだけでは確かな救いに至る有効な教えとは言えません。「独り子をお与えになったほどに」の「ほどに」は「これほどまで」と神の愛の程度を表わしているのですが、「このようなやり方で」という意味もあります。御子を与えるという手段なしには救いは成り立ちません。聖餐の修練は、まさにそのことを悟らせるものです。
  これと同じ内容をTヨハネ4章9〜10ではこう言っています。《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》。この出来事によってこそ神の愛が明らかになるのです。神の愛はどこででも知られるとも言えますが、不確かさが残ります。ですから、神の愛を知るためには、わたしたちのために十字架につけられ贖いを果たしてくださった御子に目を注がなければならないのです。独り子を与えることは、神の愛がもっともリアルに示されるところです。愛の真実さ、確かさ、その深さ、その歴史的現実性を示すものであり、わたしたちの不信仰を打ち砕く決定的な決め手です。
  しかもこの犠牲はわたしたちキリスト者だけに差し出されているのでなく、この「世」とそこにあるすべての人のために与えられているものです。「御子によって世が救われること」が神の願いなのです。けれども、救われたことを知らずに闇の力の下に留まり続ける人々もいます。《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない》と言われています。ここで「裁き」と訳されている言葉は、「分割する」、「分ける」という意味も持っています。イエスさまによってもたらされた救いに対して、どのような態度を取るのか、それによってわたしたちが光の中を歩み始めるか、それとも闇の中に留まって自ら滅びへの道を歩むのかが、はっきり決まるだろうというのです。   あのニコデモはこの夜の対話に導かれ、次第に主に従う者へと変えられていきました。イエスさまが祭司長たちに捕らえられそうになったとき、ニコデモはイエスさまを弁護しています(7章50〜51)。そして、イエスさまが十字架の上で死んだ後、アリマタヤのヨセフによって遺体が引き取られ墓に入れられるときに、ニコデモは没薬を持って来て、イエスさまの遺体を葬りました(19章39以下)。もはや闇夜に隠れることなく、ローマの総督の前にイエスさまの遺体の引取りを申し出たのです。
  わたしたちもあのニコデモのように、この主の日に御言葉と聖餐をとおして豊かに降り注がれた上からの光を受けて、光の子として歩み始めましょう。イエス・キリストという光の中に招き入れられている大きな恵みに感謝し、父なる神の自由な恵みによって選ばれ、招き入れられた幸いをしっかりと受け留めて、この四旬節を歩んでいきましょう。


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