2018年5月13日  昇天主日  ルカによる福音書24章44〜53
「イエス最後のことば」
  説教者:高野 公雄 師

  《44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
  50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」》

  先週10日の木曜日が、復活したイエスさまの昇天を記念する「昇天日」でした。けさの聖書朗読は昇天日と同じ個所が指定されています。イエスさまの昇天については、次のように伝えられています。《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》。
  イエスさまは十字架にかかり、三日目によみがえりました。そして、天に上げられました。ルカ福音書は、このイエスさまの昇天の出来事を、イエスさまの復活の出来事とひとつながりに記しています。しかし、きょうの第一朗読である使徒言行録1章3によると、イエスさまが天に上げられたのは、復活したのち、40日経ってのことでした。地上でのイエスさまの歩みは、この昇天によって終わります。そして、天に上げられたイエスさまによって注がれる聖霊の働きが、次の使徒言行録に記されるのです。
  イエスさまが天に上げられるということは、《彼らを離れ》ることで、それは本来悲しい出来事のはずですが、不思議なことに、弟子たちは十字架によってイエスさまを失ったあの時のように悲しみにくれることがありませんでした。こう書かれています。《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》。それで分かることは、イエスさまが天に上げられるということは、弟子たちにとって、決してイエスさまが「遠くへ行ってしまう」出来事ではなかったということです。そうではなくて、逆に、イエスさまが天に上げられることによって、「天そのものが近くなる」出来事だったのです。神ご自身が近くなり、救いの世界が近くなりました。それゆえに、彼らは大いに喜んで、神をほめたたえたわけです。
  きょうの第二朗読に《教会はキリストの体であり》(エフェソ1章23)とありました。そこでは、復活して天に昇ったイエスさまと教会との関係が、頭と体の関係として語られています。天にあるイエスさまとわたしたちとは、頭と体のように分かちがたく結ばれているのです。それは、天とわたしたちが分かちがたく結ばれているということでもあります。そのように、わたしたちはイエスさまが天に上げられたことにより、天と結び合わされている共同体です。
  この国では、信仰とはまったく関係なく天国について語られることが少なくありません。しかし、「天とあなたと何の関わりがあるか」と問われたら、イエスさまを抜きにして、わたしたちは何と答えることができるでしょう。天に顔向けができないようなことを繰り返しながら生きてきたわたしたちが、どうして天との関わりがあるなどと言えるでしょうか。そのようなわたしたちがなおも希望をもって天を仰ぐことができるのは、ただひとえに、そこにイエスさまがいてくださるからです。十字架にかかってわたしたちの罪を贖い、復活されたイエスさまが教会の頭としてすでに天にいてくださるからです。ですから、わたしたちは安心して天を仰ぐことができるのです。それゆえにまた安心して地上の生涯を終えることもできるのです。頭であるイエスさまはすでに天におられ、わたしたちはその一部であるからです。

  ところで、復活されたイエスさまは、天に昇るに際して、《わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである》と言われます。そして、《次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する》と言われました。ここで、イエスさまは御自身が誰であるか、聖書が記すメシアであるということを明確に告げたのです。そして、十字架も復活も、聖書に書かれていたことであり、神の永遠の御計画の中にあったことなのだと告げました。
  実は、ここに書かれている言葉通りのことは、旧約聖書のどこにも書かれていません。ここでイエスさまが告げているのは、旧約聖書のあの個所、この個所、とひとつひとつ拾い上げていくようなことではなくて、聖書全体としてそのことが預言されているのだということです。つまり、イエスさまというお方は、聖書の中の登場人物の一人というものではなく、聖書全体がイエス・キリストという主題で書かれているということです。そして、なぜイエス・キリストという主題で書かれているかと言えば、イエスさまの中にわたしたちの一切の希望があるからです。
  ここに、イエスさまが天に昇られる前に弟子たちに対して聖書のことを教えられた理由があります。すなわち、イエスさまが天に昇られて弟子たちの前から姿が見えなくなっても、必要なことはすべて聖書に書かれていて、その聖書を通してイエスさまが理解できるということです。
  さらに、イエスさまは《また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる》と言います。全世界の人々の救いこそ、神の御心です。使徒たちは聖霊なる神の導きの中、このイエスさまの言葉を思い起こし、全世界にイエスさまの福音を宣べ伝える者とされていきました。それゆえに、イエスさまは言います。《あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》。「高い所」というのは、イエスさまが上げられた天です。そのように、イエスさまが天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われるということです。天に上げられたイエスさまが聖霊を地上に注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力に覆われるのです。それが父の約束だとイエスさまは言ったのです。
  イエスさまの弟子たちは、この復活のイエスさまとの出会いによって変えられました。自分の幸い、自分の願い以上のもの、自分の人生に意味を与える大きな使命と言うべきものを与えられたからです。これを召命と言います。このイエスさまの召命に応えて生きるという新しい人間がここに誕生しました。復活のイエスさまを信じる者には、この復活の主からの使命も共に与えられているのです。
  イエスさまの弟子たちは、復活のイエスさまに出会い、大きな喜びを知りました。しかし、それは自分一人の中にとめておくような喜びではありませんでした。自分の救いは、自分だけのものではありません。「救わんがために救われてある」。これは、救世軍の指導者、山室軍平牧師がよく口にしていた言葉だそうです。わたしが救われたのは、他の人に救いが及ぶためという自覚は大切です。わたしのような者が救われたのだからあの人が救われないはずはない、ということで受けた恵みを流していくことが伝道です。恵み、祝福をこのわたしで止めてしまわないで、流していく。その恵みの水路として、このわたしは召されているのです。
  そして、大事なことは、わたしたちに務めを与えてくださったお方は、また必要な力をも与えてくださるということです。実際、わたしたちはルカ福音書に続く第二巻、使徒言行録において、神の力が生き生きと働かれた初期の教会の様子を見ることができます。そして、その同じ約束はわたしたちにも与えられているのです。
  さらにイエスさまが言い残したように、天に昇ったイエスさまの代わりとして、父なる神が約束した聖霊が来ます。そして聖霊を通して、じつは、イエスさまがわたしたちと共におられるのです。復活されたイエスさまは生きておられ、天に帰られましたが、聖霊を通して共に歩まれるということです。
  したがって、イエスさまのドラマは終わったのではありません。聖霊と共に、新しい歩みが始まりました。今日ここに教会が建っているのも、その聖霊の働きの表れです。それゆえ、わたしたちも、イエスさまと共に聖霊と共に、わたしたち自身の新しい歩みを始めることができるのです。次週は聖霊降臨祭です。イエスさまの昇天後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、わたしたちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、上よりの力に覆っていただくことを求めましょう。


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