2017年12月23日  降誕祭(前夜)  ルカによる福音書2章1〜20
「救い主イエスの誕生」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。》
  イエスさまは、マリアとヨセフが、まだ結婚前のいいなずけであった時に生まれました。これは、マリアが聖霊によってイエスさまを身ごもったからで、もちろん、「できちゃった婚」とは異なります。しかし、人間の目から見れば、まだ早いということになるでしょう。また、イエスさまは、マリアとヨセフがベツレヘムという町に人口調査の登録をするために旅をしていたその時に生まれました。これも、何も旅先で生まれることはないだろう、家で生まれたらどんなに良かったか、と思います。しかし、それが神の時というものなのです。マリアもヨセフも、旅先で出産したかったわけではなかったでしょうけれど、そうなってしまいました。神の時が満ちたからです。
  《ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて》とあります。この「月が満ちて」というのは、出産を指していると考えて訳すとこうなりますが、この言葉は直訳すれば「日が満ちて」、「時が満ちて」です。出産は、早すぎても遅すぎても困ります。時がありまし。マリアとヨセフにとって、それは自分たちの都合の良い時ではありませんでしたけれども、それが神の定めた時でした。それは、神の時が満ちたということです。そして、この神の時は旧約以来の、もっと言えば天地創造以来の神の救いの計画の時がついに満ちたということができると思います。
  神の時は満ちるのです。わたしたちの時の感覚は、「過ぎていく」というものでしょう。それは、一瞬一瞬が過去となっていく時です。しかし、神の時は未来に向かって進んでいきます。神の計画されている出来事に向かって進んでいくのです。そして、出来事が起きます。神の時は、過ぎ去る時ではなく、満ちていく時なのです。わたしたちも、ただ過ぎ去っていく時に生きているのではなくて、神の計画の中で、満ちていく時の中に生かされているのです。わたしたち一人一人にも、神の計画というものがあるからです。
  この神の時が満ちるということは、水滴を受ける水がめにたとえることができるでしょう。一つの水がめがあって、そこに一滴一滴水が落ちていきます。その瓶(かめ)のどの辺りまで水が入っているのか、外からは分かりません。しかしある時、水がいっぱいになると、その瓶から水があふれ出てきます。この水があふれ出るのが、神の出来事であり、一滴一滴水が瓶に落ちていくのが、それが神の時が満ちるということです。いつかは分かりません。しかし、いつか必ず水は瓶にいっぱいになって、あふれてきます。それまでは何も起きません。しかし、この何も起きていないかのように見える時は、神の時が刻一刻と満ちているのです。
  さて、生まれたばかりのイエスさまは、《初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた》と記されています。マリアもヨセフも旅の途中ですから、ゆりかごもベッドもあるはずがありません。そこにあった飼い葉桶に、イエスさまは布にくるまれて寝かされました。飼い葉桶がイエスさまのゆりかごとなりました。これは、マリアとヨセフがわざわざそうしようと思ってしたことではありません。他に無かったので仕方なく、あり合わせの物で間に合わせたということです。
  しかし、ここにも神の深い知恵、わたしたちの思いもよらない配慮があったのです。救い主の誕生ですから、立派な家の暖かな部屋で、ふかふかの布団に寝かされ、人々の喜びの声に包まれてしかるべきでした。しかし、イエスさまは飼い葉桶に寝かされました。このことを、天使はこう言います。《今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである》。「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」、これが救い主の「しるし」だと言うのです。これは一体どういうことでしょうか。それは、この救い主が、人々の上に威圧的な力をもって君臨する王としてではなく、どこまでも人々の下に降り、どんな人をも下から支え生かす、まことの愛の王として来られた方だということです。天の高みから降られた御子は、地上に人の姿をとるだけでは済まず、その中でも最も低い所まで降られたのです。どんな境遇の中に生きている人の傍らにもいて、どんな人をも愛し、どんな人とも共に生き、上から下から守り支える方として来てくださったのです。
  この飼い葉桶のしるしは、最後の十字架につながります。イエスさまは、犯罪人と共に十字架につけられて死にます。これは、どんな人とも死ぬまで一緒だということを示しています。飼い葉桶で眠る御子は、十字架の上で死なれる御子だということです。飼い葉桶に眠る御子は、《わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた》(ヘブライ4章15)方なのです。クリスマスは十字架と切り離すことはできません。わたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架にかかってくださったお方が生まれた。それだからこそ、喜びなのです。この方によって、わたしたちは造り変えられ、神の子・神の僕として、新しい希望の中に生き、新しい目的と意味と価値とをもって生きる者とされました。永遠の命の中を生きる者とされたのです。
  イエスさまがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに告げました。《恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる》。そして告げられたのが、救い主イエスさまの誕生でした。このイエスさまの誕生は、すべての民があずかることのできる大きな喜びです。クリスマスの喜びは、貧しい人にも、弱い人にも、苦しんでいる人にも、困り果てている人にも与えられているものです。神は、どんな状況の中で生きている人をも愛しておられます。その人に代わって愛する独り子を十字架に渡すほどまでに、愛しておられます。この神の愛こそ、わたしたちに与えられている大きな喜びなのです。
  イエスさまがお生まれになったとき、天使と天の大軍が《いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ》と神を賛美しました。神の永遠の救いの御業が成就することを知らされた天使たちは、大いに喜びました。この天の喜びを知らされた者が、クリスマスを喜び祝うようになるのです。しかし、また、天におけるクリスマスの喜びは、イエスさまが生まれた時だけのものではありません。イエスさまが生まれて以来、天ではこの喜びがずっと続いているのです。《一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある》(ルカ15章10)。
  地には戦いがあり、飢えがあり、病があり、嘆きがあり、涙があり、悲しみがあります。それは時として、わたしたちの日常のすべてを飲み込んでしまうように思われる時もあるでしょう。右にも左にも行けない、前にも後ろにも行けない。何をどうして良いのか分からない。そういう時もあります。しかし、忘れてはなりません。その時にもわたしたちの上に天は開いているのです。そして天では、最初のクリスマスの日と同じように、神をほめたたえる歌が鳴り響いているのです。わたしたちには天があります。八方塞がりのように思えても、いつでも天は開いているのです。ですから、思い出しましょう。そしてクリスマスの讃美歌を歌えば、必ず天からの光が差してくるはずです。


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