2018年10月14日  聖霊降臨後第二一主日  マルコによる福音書10章1〜16
「離婚について」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
  13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。》


  きょうの福音個所は、ファリサイ派の人々がイエスさまを試そうとして、《夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか》と尋ねることで始まります。イエスさまが問い返すと、彼らは、《モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました》と答えます。これは、申命記24章1に、《人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる》とある言葉に基づいています。離婚はこのように許されていましたから、マタイ19章3に《何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか》とあるように、この問答は、離婚が是か非かではなくて、「離婚の条件」を問題としているのでしょう。
  当時は、夫の方だけが離婚する資格をもっていました。問題は「離婚の条件」です。申命記の《妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは》とは、具体的に何を指すのか、律法学者の間でも意見が分かれてたのです。A学派は、これは妻が姦淫を犯した場合のことだと言い、B学派は、夫が何か気に入らないこと、たとえば、子ができないとか家事がうまくできないとか、があればそれで十分だと言っていました。厳しい見方と緩い見方があれば、人は安易な方に流れます。ですから、夫が離縁状さえ妻に渡せば良いというのが実態だったようです。
  イエスさまはこの答えに、まず、こう指摘します。《あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ》。ファリサイ派の人々は、律法に記された手続きさえ踏めば、離婚するのは当然の権利だと考えます。しかし、イエスさまは、「モーセは、離婚を問題ないとしたのではなく、罪深い人間に対する譲歩なのだ。そこには、私たちの心の頑固さという罪が露わに現れている。離婚しなければならない状況にあるということ自体、私たちは悔い改めなければならないことなのだ」と言います。確かにモーセは離婚する場合についての仕方を記していますが、それは離婚せざるを得ない、人間の心の頑固さの故なのだと言うのです。《心が頑固》とは、悔い改めようとしないということです。イエスさまはこのように、ファリサイ派の人々が律法に示されている神の御心を少しも考えないで、ただ字面だけ律法に違反していなければ良しとする聖書の読み方を問題視しているのです。
  そしてイエスさまは、離婚することが律法に適っているかどうかを議論する代わりに、そもそも結婚とは何なのかという話を始めます。《天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない》。これは創世記1章と2章に記されていることの要約です。神は天地を創造したとき、人間を神に似た者として造りました(創世記1章26〜27)。その神に似た者として造られた人間は、男と女に造られたのです。もちろん、男性の神と女性の神がいて、それに似た者としたということではありません。この「神に似た者」として造られたということは、何よりも「愛である神」に似た者として造られた、愛の交わりを形作るものとして男と女に造られたということです。この愛の交わりは、男と女の二人が「一体となる」交わりなのです。このようなものとして造られた人間が、神によって選ばれ、一体とされmスあす。それが夫婦というものなのです。結婚とは、二人がたまたま「結婚しましょう」と言って一緒になる、ただそれだけのことではありません。二人が「結ばれる」とは、神の新しい「出来事」なのです。一人の男と一人の女が結婚によって結ばれるとき、それは創造者の定めにより、《二人はもはや別々ではなく、一体である》という出来事が起こっているのです。
  これは夫婦だけのことではありません。夫婦のもとには子供も与えられます。これもまた、私たちが造ったわけではなく、神が与えてくださるものです。夫婦、親子、兄弟。この家族というものは、神が与えてくださった愛の交わりなのです。愛の交わりを形作るために神が与えてくださったものなのです。それを壊して良いはずはありません。
  結婚における男女の一体性が、このように神の御業である以上、人間がその一体性を利己心のゆえに壊すようなことはしてはなりません。《従って、神が結び合わせてくださったものを、人が離してはならない》のです。「どんな場合に離婚したらいいのか」ではなく、神が結び合わせた二人に離婚などということは《初めから》ありえない。これが、イエスさまの答えです。
  このように、イエスさまは、神によって結び合わされた結婚というものがどれほど恵みに満ちたものであるかということを重要視しています。そして、私たちもまた、この恵みの中に生きるように招いているのです。この神の恵みが見えてくるならば、恵みに応えていない自分の罪も見えてきますし、御心に適っていない現実も見えてきます。しかし、私たちは望みを失う必要はありません。私たちがさまざまな理由をつけて自分は正当だと言い張らない限り、そこには悔い改めも生まれるからです。神の赦しを求める祈りが生まれますし、神の助けを切に求めるようにもなります。祈りのあるところには、現実に神の御業が、赦しと癒しの御業が起こされてきます。そのようにして、人は変えられていくのです。自分自身だけでなく、周りも変えられていきます。これが、神の創造された「結婚」の恵みです。私たちはそこにこそ身を置かなくてはなりません。
  離婚と再婚を全面的に否定するイエスさまの発言を聞いて、弟子たちは驚き、《夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです》(マタイ19章10)と言っています。これは弟子たちの冗談でしょうけれども、それに対するイエスさまの言葉は意味深いものでした。イエスさまは、《だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである》(19章11)と言っています。つまり、イエスさまが語る離婚とか再婚がありえない夫婦の一体性というのは、恵まれた者だけに起こる恵みの出来事であるということです。一組の男女が離婚も再婚もしないで生涯添いとげることができるのは、その男女の律法(道徳)を守りぬく立派さに基づくものではなく、神の憐れみ、恵みによって可能になったものです。ですから、離婚も再婚もしないで初めの結婚を貫いたからといって、それは誇るべきことではなく、特別に大きな恵みを受けてそうなったことに感謝することができるだけなのです。
  結婚とは、そもそもの《初めから》神の定められた創造の御業です。ですから、結婚は本来、神の前の祈りによって達成されるべきものなのです。イエスさまの恵みによって罪を赦されて歩む私たちは、罪を重ねるにもかかわらず、それに負けることなく、イエスさまの御言葉にある「結婚愛」を最後まで成就するよう、祈りつつ歩み続けることが求められているのです。
  このように結婚の一体性が「恵み」の御業である以上、教会はそれを「律法」として離婚や再婚を禁じることはできません。神の恵みによって生きる教会は、止むを得ない事情や人間性の弱さから生じた破局の傷を癒し、当事者がさらに神の恵みに生きるように励ますことが、その使命となります。
  今日では、「離婚する自由」が認められるようになりました。私たちは、ここで「結婚からの自由」と同時に、「結婚への自由」、すなわち結婚を守ろうとする自由、そして結婚愛を求め続ける自由もあることに目を向けたいと思います。「離婚する自由」を、消極的に苦しみからの救いとして用いるだけでなく、積極的に夫婦の愛を育てる動機付けとして用いたいと思います。


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