2018年10月21日  聖霊降臨後第二二主日  マルコによる福音書10章17〜31
「富の危険について」
  説教者:高野 公雄 師

  《17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。   23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」》

  ある人がイエスさまの所に走り寄ってひざまずき、《永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》と尋ねました。イエスさまはその人に、戒めを守りなさいと言います。その人は「みな守っています」と答えると、イエスさまはさらに、《持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい》と言います。それを聞くと、この人は《気を落とし、悲しみながら立ち去った》ということです。《たくさんの財産を持っていたからである》、と聖書は説明しています。そしてそのあと、イエスさまは弟子たちを見回して、《財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか》と言います。
  この個所は、救われるためには律法を守って善行を積み重ね、ついには自分の持っている財産まで売り払って人に施さないといけないと言っているように読めます。私たちが救われるためには、そうした行為が必要なのでしょうか。それでは、私たちが今まで聞いて来た福音、ただイエス・キリストの恵みを信じる信仰によって救われるという福音と違ってきてしまいます。
  イエスさまが、神の《掟をあなたは知っているはずだ》と答えたとき、この人は《永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》と問う自分の立場そのものが間違っていると気づくべきでした。彼は神の救いを、善行の対価として得られるものと考えて、そういう戒めは《みな、子供の時から守ってきました》と答えます。ファリサイ派の教えでは、律法は実行可能なものとされていました。今日の法学者も「法は最小限の道徳」と言います。イエスさまは《彼を見つめ、慈しんで》、こう言います。《あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い・・・なさい》。これは、もう一つ慈善の業を加えれば神の救いが得られるという意味ではありません。神の救いは律法の行いで入手できるものではなく、神の恵みの力によるのであって、ただ信仰によってのみ受けることができるものだということです。
  その人がはじめに、《善い先生》と呼びかけたのに対して、イエスさまは意外にも、《なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない》と応えています。イエスさまはこの言葉で、彼にこう語りかけているのだと思います。「神よりほかに頼れるかたはいないのに、どうしてあなたは自分の富に頼り、自分の善行に頼ろうとするのか。あなたが善行と思っている善行が本当に善行であるならば、自分の全財産を捨てて貧しい人に施してみよ。そうしたらあなたの善行が本当に人を愛するための善行であるかどうかが明らかになる」。つまり自分が持っていると思っているもの、自分のものだと思っているもの、それをすべて手放してみよ、ということです。ですから、もし彼が、イエスさまの言うとおりに、自分の全財産を投げ捨てて、貧しい者に施したとしても、もし彼がそれによって自分を誇り、自分の善行に満足しているのならば、イエスさまにふたたび、《あなたに欠けているものが一つある》と言われてしまうのではないでしょうか。彼に欠けているただ一つのこととは、「自分を捨てる」ということだからです。自分はこれだけのものを持っている、自分がこれだけのことをしてきた、そういう自分の思いを捨てるということだからです。そして自分を捨てるということは、自分を捨ててイエスさまに従うということなのです。イエスさまに従う、誰かに従うということが、自分を捨てるということの具体的な現れなのです。それは自分だけを信じること、自分にしがみつこうとすることではなく、自分以外の方を信頼するということです。
  たくさんの財産を持っている人はどうしても人に信頼するよりは、お金のほうが頼りになると思ってしまうようです。お金というものはそのようにして、私たちの経済生活だけでなく、私たちの魂まで支配してしまいます。人間の本性は自分が所有しているものを拠り所にして生きる姿勢が身についていて、それから脱却することはほとんど不可能です。人が求める信仰心は、自分の持っている拠り所、財産を守ってくれるものとしての宗教です。
  イエスさまはそういう求め方を捨てなさい、そういう自分を守るもの、自分を肥やすものを捨ててしまいなさいと言ったのです。その人は自分の持っている財産を捨てられないで、イエスさまのもとを去っていきました。
  その後、イエスさまは弟子たちに、《財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか》と言われました。これを聞いて弟子たちは驚き怪みました。ユダヤの社会では、富は戒めを忠実に守る者への神からの恵みとされていました(申命記28章1〜14)。ですから、財産を持つ彼は神の救いに一番近くにいると見なされていたのです。イエスさまの言葉は、弟子たちの宗教的常識を覆すものでした。イエスさまはふたたび言います。《子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか》。神の国に入るのが難しいのは、何も財産のある人だけではありません。この人と同じように自分の持っているものに執心し、一つも失うまい確保し続けるときには、財産のない人にだって、神の国に入ることは難しいのだとイエスさまは言ったわけです。それを聞いて、弟子たちはますます驚いて《それでは、だれが救われるのだろうか》とささやき合ったといいます。すると、イエスさまは《人にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ》と答えられました。この言葉は、きょうの個所の中で一番大事な言葉ではないでしょうか。
  何をしたら救われるかと自分の人間的な可能性を求めて救いを求めようとする限り、救いは遠のくばかりで、それは不可能という壁にぶつかるだけです。しかし、神には何でもできる、神はこのかたくなな自分をも、必ず救ってくださると信じ、もうただ神に頼る以外にないと、自分の持っているものをすべて捨てて、いや捨てられなくても、捨てられない自分をそのまま神に差し出して、この自分をまるごと赦し、救ってくださいと祈るのです。神に依り頼むとき、私たちもまた神の国に入れるということです。自分ではどうしても自分を捨てられない、そういう悲しい自分に気づき、どうか、この罪ある私を救ってくださいと祈り出すことが大切なのです。
  ペトロは《このとおり、わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました》と言ったということです。「私たちは大丈夫、救われますよね」と確認したのでしょうが、マタイ福音書によると、あきれたことに、《では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか》(マタイ19章27)とまで言ったそうです。
  イエスさまは最後にはこう言います。《しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる》。自分たちは一番先に何もかも捨ててイエスさまに従って来たと自負していた弟子たちに対して、そんなことを言っていたら一番後になるぞ、とイエスは釘をさすのです。この「先になる後の者」とは誰のことでしょうか。イエスさまは、あの顔を曇らせ悲しみながら去っていった人のことを思っていたのかも知れません。
  弟子たちは皆、イエスさまの十字架を通して、イエスさまに従い得ない自分を見つめさせられて、イエスさまの救いが分かったのです。私たちも、《悲しみながら立ち去った》あの人と同じく、自分の財産をすべて捨てきれない、自分を捨てきれない者ですが、そうであるから、なおのことイエスさまの十字架の救いに依り頼み、イエスさまを信じて従う者でありたいと思います。


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