2018年2月25日  四旬節第二主日  マルコによる福音書10章32〜45
「三度目の受難予告」
  説教者:高野 公雄 師

  《一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」》。
  エルサレムへの旅の途上で、イエスさまは、これから上って行くエルサレムで起こることを弟子たちにはっきりと話します。イエスさまは、いわゆる「受難予告」をすでに二回弟子たちに告げていました。一度目は《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている》(8章31)と言い、二度目は《人の子は、人々の手に引き渡され、殺される、殺されて三日の後に復活する》(9章31)と言います。ここで「人の子」とはイエスさまご自身のことです。
  今回は三度目で、さらに詳しく話しています。受難がエルサレムで起こることは、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて」ということですでに暗示されていました。彼らの本拠地はエルサレムだからです。今回はその土地が明言されました。また、初めて「異邦人に引き渡される」ことが語られましたが、これは十字架刑で殺されることを暗示しています。十字架の死刑は異邦人であるローマの処刑方法だからです。イエスさまはローマ帝国の総督ピラトに引き渡され、その判決によって十字架につけられます。そのようにしてご自分が殺される場所であるエルサレムに向かって、イエスさまはいま先頭に立って進んで行きます。つまり、ご自分の意志で、はっきりと、ぶれずに十字架の死へと歩んで行こうとしているということです。弟子たちや従う者たちはそれを見て、付いて行ったらどうなるかと恐れます。

  《ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた》。
  イエスさまがたった今、これから行くエルサレムで殺されると予告したばかりなのに、ヤコブとヨハネは「栄光をお受けになるとき」のことを言い出します。それは、イエスさまがこの三回の受難予告で毎回「三日の後に復活する」と語ったことに基づいています。この復活の予告の中にイエスさまがこの苦しみを通して栄光を受けて、この世界とすべての人々を支配するという希望を見出したのでしょう。
  ヤコブとヨハネの兄弟が願ったのは、イエスさまが勝利して栄光を受け、全世界を支配するときに、自分たちをいちばんの側近として、右大臣、左大臣の地位を与えてくださいということです。彼らはそこで、他の弟子たちとの間の序列を考えています。ですから、彼らがそのようなことを願ったことを知った他の十人の弟子たちは、彼らに腹を立てたのです。それは、自分たちも二人と同じ心情であったことを表しています。弟子たちが今、エルサレムへと進んで行くイエスさまに従っているのは、この先に待ち構えている苦しみを経て、イエスさまが栄光を受けるそのときに、従って行ったその見返りとして、その栄光にあずかることができると考えているからなのでした。
  このヤコブとヨハネに代表される弟子たちの思いは、わたしたちが信仰をもって生きようとするときに抱く思いでもあります。信仰に入るきっかけや具体的な動機はそれぞれ皆違っています。しかし、わたしたちが信仰を持って生きようと決心するときに必ず思っているのは、自分の人生を信仰によってより充実したもの、平安と慰めのあるものにしたいということでしょう。つまりわたしたちは誰でも皆、広い意味で、イエスさまの勝利と栄光にあずかりたいと願って信仰者になるのです。
  イエスさまこそ救い主であると信じたわたしたちは、イエスさまによる救いの恵みを身に帯びて、その栄光を映し出す者として生きようと努力します。そこにはいろいろな苦しみも伴いますが、その苦しみを背負って、忍耐しつつ頑張って努力していくことによってこそ、イエスさまの勝利と栄光にあずかることができると信じて、それを目指して歩もうとするのです。この二人と同様に、わたしたちもまた、信仰をもって生きるとは基本的にこのように生きることだと思っています。
  ところが、イエスさまはこの二人に《あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない》と言い切ります。そして《わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか》と問います。この杯も洗礼も、これからイエスさまが味わうことになる十字架の苦しみを言っています。ヤコブとヨハネは即座に《できます》と答えます。しかし、このような人間の決意や自信がいかにもろいものであるかは、後でイエスさまが捕えられたときに逃げ去ったことからも明らかです。イエスさまの飲む杯を飲み、イエスさまの受ける洗礼を受けることなど、彼らにはできないのです。イエスさまはこれらの言葉によって示そうとしているのは、彼らは苦しみをも耐え忍んで従って行くことによってイエスさまの栄光にあずかろうとしているけれども、それは不可能なことだし、そのようなことを求めること自体が間違っているということです。

  《そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」》
  これは、「皆に仕える者となり、すべての人の僕となる人こそが、いちばん高い地位に就くことができる」という意味ではありません。むしろ、偉くなろうとか一番うえになろうとか、そのような思いを捨てて、仕える者、僕となりなさいと言っているのです。そしてこの教えの基礎となるのがこのみ言葉です。《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである》。そして、これはイエスさまが自らの口で十字架の意味を告げたたいへんに重要な言葉です。これも、「だからあなたがたもイエスさまに倣って仕える者、人々の僕となりなさい、そうすれば救いにあずかることができる」と言っているのではありません。イエスさまが十字架にかかって死ぬという奉仕をわたしたちのためにしてくださったことによって、わたしたちは罪を赦され、イエスさまの命という身代金によって罪の支配から解放されたのです。イエスさまによるその救いの恵みは、わたしたちの努力や、苦しみを耐え忍んで頑張って従って行くことによって得られるのではありません。わたしたちは皆、結局、イエスさまの飲む杯を飲むことができず、イエスさまの受ける十字架の洗礼を共に受けることのできない者です。そのような弟子たちとわたしたちのために、イエスさまは一人でその杯を飲み、その洗礼を受けてくださったのです。わたしたちにできることは、その救いの恵みを、ただ深く感謝していただくことだけです。
  イエスさまはヤコブとヨハネに《確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる》と言います。その救いの恵みをいただいたことによって、彼らは後に、イエスさまが飲んだ杯を飲み、イエスさまが受けた洗礼を受ける者とされていきました。彼らも苦しみを背負ってイエスさまに従い、人々の僕となって仕え、人々のために犠牲を負う者とされたのです。実際、ヤコブはヘロデ・アグリッパによって殺され、使徒たちのうちの最初の殉教者となったことが、使徒言行録12章に記されています。それは、そうすることによってイエスさまの右と左の栄光にあずかるためではありません。誰がどういう栄光を受けるかなどということはもはや問題ではありません。わたしたちに仕えるために、ご自分の命を献げるためにこの世に来たイエスさまが招いてくださって、イエスさまと共に歩むことができることこそが、わたしたちの最大の喜びなのであって、その喜びの中でわたしたちは、皆に仕える者、すべての人の僕となっていくのです。


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