2017年12月3日  待降節第一主日  マルコによる福音書11章1〜11
「エルサレム入城」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
    「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
    10 我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。》

  イエスさまはいよいよエルサレムに近づいたとき、都に入る準備をされます。その準備としてしたことは、意外なことでした。「まだ誰も人が乗ったことのない子ろば」を連れてくるようにと言って、弟子二人を使いに出します。子ろばに乗ってエルサレムに入ろうというのです。このことは、すでに旧約聖書に預言されていたことでした。《娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。・・・高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って》(ゼカリヤ9章9)。たしかにイエスさまは王としてイスラエルの民の都に入ろうとしておられるのです。この「高ぶることなく、ろばに乗って」という聖句を、マタイ21章5は《荷を負うろばの子に乗って》と意訳しています。ろばは馬と違って、戦争には使われません。重い荷を負って人に仕える動物です。大人しくて柔和で、その上背も低いのです。そのろばに乗ったイエスさまこそは、まさに柔和なお方で、《仕えられるためではなく、かえって仕えるため》(マルコ10章45)に来られたのです。つまり、「王の王」であるイエスさまが、僕の僕となり、罪人に仕えるお方として、来られたのです。イエスさまは、弱い者の弱さを担い、病める者の病を担い、低い者の低さに身を置いて、わたしたちの限りなく深い汚れと罪をすべてぬぐい取ってくださる僕となって、僕の道を十字架の死に至るまで、歩み通されたのです。イエスさまはいま自分の都に入るに当たって、力をもって支配するこの世の王とは反対に、自分は人々の重荷を負う柔和な王としてイスラエルの民のところに来ようとしていることを、態度で示そうとされたのです。
  また、このとき、《多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた》、と記されています。自分の服を脱いでその人が歩く道に敷くという動作は、ユダヤでは、王の即位式などに際して、自分の命を捨てて服従するという象徴的行為とされます(列王下9章13)。また、ヨハネ12章13は、この「葉の付いた枝」がなつめやしの木であると伝えています。「なつめやし」というのは「しゅろの木」のことですから、イエスさまのエルサレム入城の日が「しゅろの日曜日」と呼ばれることになります。そして、ヨハネ黙示録7章9は、終わりの日に神の玉座の前に集まった大群衆がしゅろの枝を手に持って賛美を歌う様子を描いています。
  さらに人々は叫びます。《ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ》。ダビデとは、かつてエルサレムを築いたイスラエルの王です。そして、旧約聖書の預言者は、このダビデの子孫から、イスラエルの王が生まれ、民を救う救い主として来られることを告げていました。人々は、イエスさまをダビデの子孫として生まれる救い主として受け入れたのです。「ホサナ」というのは、「お救いください」という意味の言葉で、詩編に歌われている《どうか主よ、わたしたちに救いを》(詩編118編25)という叫びです。ですから、これらの行為はすべて、イエスさまがいま王となられ、神の国が成就することのしるしと考えることができます。人々もまた、凱旋将軍を迎えるときのように、歓呼の声をもってこの「まことの王」を迎えたのです。
  このイエスさまのエルサレム入城において、わたしたちが驚かされるのは、この出来事があまりにもスムーズに進んでいくことです。まず、イエスさまはどこにろばがつないであるかをすでにご存じでした。さらに、弟子たちは表通りにつないであったろばをほどこうとすると、居合わせた人々が《その子ろばをほどいてどうするのか》と言います。弟子たちが、イエスさまの言われたとおりに話すと、許してくれたというのです。このとき、まるで合言葉のように、《主がお入り用なのです》という言葉が語られています。この言葉は、神が人間をお救いになるという計画の実現に当たって、すべてのものがそのために備えられていたことを意味しています。すなわち、この出来事は父なる神の御心であり、わたしたちの救いのために、神がそのように導かれているということです。
  イエスさまは、人間が神を退けて自らの力による支配を確立しようとするこの世に神の恵みの支配をもたらすために、子ろばに乗るという、王でありつつ、この世の王と異なり、へりくだった高ぶらない姿を取って、エルサレムの中に入られたのです。イエスさまが王として来られたのは、人が人を支配している罪と戦い、その罪に勝利することによって神の支配をもたらすためでした。それは、神の支配ではなく、自らの支配を望むことによって神に敵対しているわたしたちに神との平和というまことの平和を与えるためです。
  イエスさまが、王として、わたしたちの罪と戦った場所が、このエルサレムでイエスさまが磔(はりつけ)にされた十字架です。それは、王にはまったく似つかわしくない犯罪人の姿です。エルサレムの人々は、イエスさまが来たことを喜び「ホサナ」との叫びを上げた、わずか五日の後に、今度は、一転して「十字架につけろ」との叫びを発するようになりました。エルサレムの人々は、確かに救い主を求めていましたが、心からイエスさまの支配に自らを委ねようとしていたのではありません。むしろ、自分たちが願っていた政治的解放を求め、それを実現してくれる王としてイエスさまを迎えたのです。ですから、イエスさまが自分たちの意に反して、力強い王ではないことが分かると、簡単にイエスさまを見捨て、殺してしまうようになったのです。
  一方のイエスさまは、そのような人々に対して、少しも抵抗しませんでした。人々は、イエスさまを十字架につけて、《他人は救ったのに自分は救えない。イスラエルの王。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう》(マタイ27章42)と言います。力強い姿を見せれば信じてやろうと主張したのです。しかし、イエスさまは、力強い姿を示して、十字架から降りて来ることはありませんでした。イエスさまがエルサレムに来られたのは、ご自身の力を誇示するのではなく、ご自身を犠牲として捧げるためだったからです。
  イエスさまが、へりくだった柔和な王として来てくださった。そのことによって、わたしたちの救いが成し遂げられたことを知らされるとき、わたしたちは、自分が王として振る舞い、まことの神の支配を望まずに、神を拒んでいる自分の罪を知らされます。しかし、そのような罪が完全に赦されているという現実の中で、自らを悔い改めつつ、イエスさまを王として迎えることができるのです。イエスさまによって、神の救いの支配が実現されているという恵みの中で、わたしたちは、「ホサナ」と叫びつつ、イエスさまを自らの王、救い主として迎え入れ、イエスさまの歩みに連なる者とされるのです。

  きょうの待降節第一主日をもって、教会の暦は新しい年に歩み入ります。わたしたちは新しい年の初めに立ち、来し方を振り返り、そして行く末を見据えるときに、自分の能力や力の弱さ、才能の乏しさに弱気になり、不安を覚えることがあるかも知れません。しかし、本当は、《主がお入り用なのです》という御言葉こそが、すべてのすべてなのです。そこではもはや、能力も才能も問題ではありません。イエスさまがそういう力の足りないわたしたちを用いて尊い御業をなさり、しかもイエスさまが共にいてくださるのですから、わたしたちは、イエスさまをお乗せした子ろばのように、ただ力一杯為すべきことを為せばよいのです。わたしたちのために僕となられたイエスさまが先頭に立って行かれ、とこしえの門を開いてくださいます。このイエスさが、新しい年にもわたしたちを尊い救いのご用のために用いてくださいます。ですから、わたしたちは安心して、その後に従って、前進できるのです。


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