2018年10月21日  聖霊降臨後第二四主日  マルコによる福音書11章12〜25
「いちじくの木を呪う」
  説教者:高野 公雄 師

  《12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。》
  《20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」》


  イエスさまがエルサレムに入城したのは受難週の初日、日曜日のことでした。その日の夕方、イエスさまはエルサレムの近くのベタニア村に戻りました。そして次の日の月曜日、イエスさまはふたたびエルサレムに入り、神殿で商売をしている人々を追い出すという「宮清め」と呼ばれる神殿粛清を行いました。その日の朝、エルサレムへ上る途中、イエスさまは葉の茂ったいちじくの木を目にして近づいて、実が付いていないのを見ると、その木に向かって《今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように》と呪いました。その翌日の火曜日、イエスさまたちがまたエルサレムに向かう道すがら、昨日のいちじくの木が枯れているのを見たというのです。
  このいちじくを呪う出来事は、「宮清め」の記事を前後に囲む形で記されていて、宮清めと結びつけられた話となっています。宮清めは「神殿への神の裁き」を象徴する行為でした。葉を茂らせているのに実がなっていない、このいちじくの木は、見せかけは立派なのに内実の伴わないユダヤの民とその神殿に重ね合わせられているわけです。
  旧約において、神の御心に適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、あるいは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきました。イエスさま自身も、「いちじくの木の教え」(マルコ13章28〜31)や、「実のならないいちじくの木のたとえ」(ルカ13章6〜9)で、いちじくを用いて語っています。ここでイエスさまは、いちじくの木をユダヤ人とエルサレム神殿の象徴として見立てているのですが、それはキリスト教の教会にはあてはまらない、とは言えないでしょう。
  では、イエスさまが私たちに求めている実とは何なのでしょうか。それは信仰です。神の恵みと慈しみに信頼することです。イエスさまが求める実は、私たちが善い人になって、善い行いを積み上げるというようなことではありません。神が事を起こし、道を拓いてくださるということを信頼することです。神は忍耐の限りをつくして実を待ちましたが、イスラエルは実を結びませんでした。信仰によらず、律法の業によって義の実を追い求めたからです。ですから、ペトロが《先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています》と告げると、イエスさまはすぐに《神を信じなさい》と言われたのです。つまり、神が私たちを憐れんで救ってくださろうとしているその御心、そして実際にそれを実現してくださるその御業。その神の真実を信頼しなさいと言うのです。神を信じる私たちの気持ちではなくて、神の御心と御業に目を向けなさい。それが《神を信じなさい》ということなのです。
  その神の御心と御業は、イエスさまの十字架と復活において完全に成し遂げられました。救われるはずのない罪人である私たちのために、神の独り子が十字架に掛かって、私たちの裁きの身代わりとなってくださったのです。そして、このことによって私たちは、天と地を造られた神に向かって「父よ」と呼ぶことを許されたのです。神は、私たちのために愛する独り子さえ惜しまないお方ですから、私たちの救いのためなら何でもしてくださるのです。イエスさまはそのことを信じなさいと私たちを招いてくださっているのです。
  いちじくの木の記事は、神を信じることを教えるだけでなく、祈りについても大事なことを教えています。イエスさまは、《わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである》(11章17)と言っていますが、神の真実を信頼するということは、祈りに表れてくるのです。イエスさまはここで、祈りについて、「信じる」ことと「赦す」ことの二点にまとめて教えています。
  祈りの教えの第一点は、「既に得られたと信じて祈る」ということです。イエスさまは言います。《はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる》。山というのは動かないものの代表です。しかし神は、このどうしても動かないと思える山さえも動かしてくださるというのです。そのことを信じて祈るということです。神は天と地のすべてを造られた方なのですから、この方が為そうとされるならば、山も動くし、星も落ちるのです。その全能の神の力と、その力を私たちの救いのために用いてくださるという神の愛を信じて祈れということです。これが私たちに求められている信仰であり、祈りなのです。
  私たちは、人生を歩んでいく中で、八方塞がりで、どうしたら良いのか分からずに思い悩むことがあるでしょう。しかし、八方が塞がっても、上は開いています。その天に向かって、神に向かって祈るのです。神がこの八方塞がりの状況を、私たちが思いもしない仕方で打開してくださることを信じて祈るのです。ここでの祈りは、イエスさまが先に弟子たちに、《人にできることではないが・・・神は何でもできる》(10章27)と教えたことに通じます。また、息子の癒しを願う父親に、イエスさまが、《「できれば」と言うのか。信じる者には何でもできる》(9章23)と言ったのは、この意味です。
  イエスさまは、《少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる》、と言われました。それは、私たちが信じて祈れば、その祈りに力があって事を起こすことができるという意味ではありません。私たちは自分の信念とか真面目さに基づいて、自分の願望に従って祈り求めたことは、成ると信じることはできません。そうではなくて、私たちは神とイエスさまに結ばれて、神の救いの御心と私たちの心が一つにされ、神の救いの御業が現れることを第一に願う者とされます。そのとき、私たちが祈り求めるものは既に神の御手の中で与えると決めておられるものなのですから、必ずそうなるのです。ですから、「既に得られた」と信じて祈ることができるのです。問題は、私たちの祈りが神の言葉に従った祈りになっているかどうかです。
  さて、祈りについての教えの第二点は「赦す」ことです。イエスさまはこう言います。《また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる》。私たちが祈るとき、赦しの心をもって祈るということです。これは、「既に得られた」と信じて祈ることとつながっています。赦しは、神の愛が私だけに向けられているのではなく、この人あの人にも同じように向けられていることを心で受け止めることから派生してくるのです。
  私たちの人生において最も大きな問題は、この赦しでしょう。私たちが辛く苦しい思いをするのは、愛の交わりが破れるからです。もちろん、病気や経済的問題は小さな問題ではありません。しかし、私たちが愛の交わりの中に身を置くことができるならば、それらは私たちから生きる力と希望とを奪うような、どうしようもなく辛く苦しい問題とはならないでしょう。けれども、愛が破れるならば、私たちは生きる気力を失ってしまいます。この愛の交わりの破れこそ、私たちの人生の中で山のように動かずに私たちを苦しめる原因なのではないでしょうか。イエスさまは、「その山が動くのだ。神が事を起こしてくださるのだ」、そう励まし、促してくださっているのです。
  この赦しこそ、私たちがそして世界が、いつの時代でも最も必要としているものなのです。赦せないで、恨みと憎しみが支配する中では、私たちは決して幸いになることはできません。私たちの祈りは、自分の幸いを願うところから一歩出て、あの人この人との和解へと導くものなのです。それは、イエスさまが赦しを与えるために来られた方であり、そして、その方によって私たちが救われたからです。人を赦すことが大事なことは、「主の祈り」の中に、《わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように》(マタイ6章12)という祈りとして取り入れられていることでも分かります。私たちは、この祈りを与えられ、この祈りへと招かれていることを、心から感謝したいと思います。


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