2018年11月11日  聖霊降臨後第二五主日  マルコによる福音書12章28〜34
「最も重要な掟」
  説教者:高野 公雄 師

  《28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。》

  一人の律法学者に、《あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか》と問われて、イエスさまはこう答えました。《第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない》。この答えを聞いた律法学者は、《先生、おっしゃるとおりです》と答えています。当時、「数ある掟の中でもっとも重要な掟は何か」という問題は、律法学者たちの間で論じられていたことでした。実際、イエスさまの答えは、イエスさまのオリジナルではなく、有名な学者たちがすでに教えていることでした。だから、イエスさまの教えはごく自然に律法学者に受け入れられたのでしょう。他の学者は、例えば、《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(マタイ7章12)なども重要な掟の一つだと見なしていました。
  イエスさまが答えた第一の掟は、申命記6章4〜6の言葉です。これは、《聞け、イスラエルよ》と始まりますが、この「聞け」は「シェマー」と言います。「シェマー、イスラエル」と始まるので、この言葉は「シェマー」と呼ばれて、ユダヤ教のもっとも基本的な信仰告白とされます。ユダヤ人は少なくとも毎日二回、朝と夕に唱えるよう定められていました。そして、第二の掟は、レビ記19章18にある言葉です。イエスさまはここで、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することと言っていますが、この第一と第二の掟を二つで一つのセットになっているものとして提示しています。イエスさまが二つを分けることができないものとして示したことは、とても大切なところです。
  イエスさまが教えたこの二つの掟は、律法の要約としてキリストの教会で用いられてきました。これは、それぞれモーセの十戒の前半と後半を言い表していると言えます。
  第一の掟は、まず《イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である》とあります。これは明らかに、十戒の第一戒の言い換えです。そして、《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》と続くわけです。この「愛しなさい」というのは、ただの命令ではありません。神はイスラエルを自分の宝の民として愛したのです。全力で守り、支え、導いて、エジプトから救い出しました。その愛があってイスラエルはあるのです。そのイスラエルへの愛という前提があって、「愛しなさい」と告げているのです。ですから、これは神からの愛の表明であり、この愛の交わりにとどまるようにとの熱い招きなのです。この掟に生きる者は、神との愛の交わりの中に生きるために、全身全霊をもって応えます。それは、神がそのようにまず私たちを愛してくださっているからです。ここに生まれる神との交わりとしての信仰は、この世の生活におけるさまざまな幸い、富とか、家庭とか、栄誉とか、健康とかを手に入れるための手段としての信仰、あるいはそういう幸いにもう一味を加えるという程度の信仰などではありません。この神との交わりにこそ、私たちの人生の幸い、生き方、希望、平安、そのすべてがあるのです。
  第二の掟の《隣人を自分のように愛しなさい》ですが、私たちは、何か良い所、優れた所があるから自分を愛するわけではありません。私たちは、お腹が空けば食べるし、喉が渇けば水を飲み、疲れれば眠ります。つまり自分のことを、意識することなく大事にしています。他人の失敗は厳しく責めても、同じような自分の失敗は笑って済ませるでしょう。この掟は、それと同じように、その人が良い人だからとか、自分に良くしてくれるからとか、そういう条件を一切つけないで、無条件でその人を受け入れ、その人を赦しなさいというのです。
  イエスさまの答えを聞いた律法学者は、《先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています》と言います。イエスさまはこの律法学者に対して、《あなたは、神の国から遠くない》と言いました。「遠くない」という言い方は微妙です。「あなたは神の国に入る」とは言わなかったのです。この人は、イエスさまの答えがまったく正しいことを知っています。しかし、掟は、よく知っていても、掟が求めることを行っていなければ意味がありません。聖書を読んで、キリスト教の知識を増やしても、この人と同じ「知っている」という所にとどまるならば、その人は神の国から「遠くない」という所にとどまってしまうのです。
  《隣人を自分のように愛する》ことは、神の愛を体験していなければできません。ここにイエスさまと律法学者との決定的な違いがあります。イエスさまが隣人への愛を「シェマー」と結びつけてその内容とされるとき、それは神の絶対無条件の愛の表現としての隣人愛となるのです。この愛の戒めは人間の努力で成就することはできません。隣人を助ける善い行為の合計が愛を形成するわけではありません。それを成就するのは、聖霊によってわたしたちに注がれる神の愛だけなのです。私たちのために死んでくださったキリストを信じて受け入れるとき、神は、神への背きという根源的な罪をキリストの十字架の血によって赦し、無条件で私たちを受け入れ、聖霊を与えて神の子としてくださいます。この聖霊によって、神の絶対の愛が私たちの心に注がれて、神の愛は体験されるのです。この神の愛が私たちの中に宿り、隣人との関わりの中で働き出すとき、初めて人は《隣人を自分のように愛する》ことができるようになるのです。
  民族や人種や宗教を超える普遍的な隣人愛は、レビ記19章18の言葉から直接に導き出すことはできません。この掟は、イエスさまの「愛敵の教え」(マタイ5章43〜48)と結びついて初めて、そのように解釈することが可能になります。つまり、イエスさまの受難と復活、贖いと赦しのみ業をとおしてこそ、正しく学び悟ることができるのです。
  教会は、律法について、二つの役割があると考えてきました。一つは、悔い改めへと私たちを導くということです。この二つの掟は、私たちが律法をまっとうすることができないことを、はっきりと示しています。私たちは、神を愛すること、隣人を愛することにおいて、いかに不徹底であるかを知らされます。それゆえ、私たちは自らの罪を知らされ、イエスさまの前に罪の赦しを求めるしかありません。イエスさまはそのような私たちを憐れみ、すべての罪を赦してくださり、聖霊を与えて、まったく新しい人間として生きることができるようにしてくださるのです。
  このイエスさまに新しくされた者にとって、律法はふたたび、生きる道筋を与えてくれます。これが律法のもう一つの役割です。悔い改めた者にとって律法は、神の国に向かってどのように歩んでいくのかという道筋を示してくれるものとなるのです。
  信仰が与えられたら、この二つの掟に代表される律法を完全に守ることができるようになるというではありません。これを完全に守った方はイエスさまだけです。私たちの中に、これをまっとうすることのできる力はないのです。しかし、そのイエスさまが私たちに聖霊を注ぎ、私たちと一つになってくださり、この掟をまっとうすることができる歩みへと導き続けてくださるのです。
  そして、この変化の完成は、終末において私たちが復活するときに成就するのです。悔い改めて、イエスさまを信じ愛する者とされた者は、すでに神の国に入り、生き始めているのです。確かにまだ完成はされていません。ですから、この掟をまっとうできないこともしばしばです。けれど、すでに私たちは神と共にあるのです。ですから、いよいよ神を愛し、人を愛する者とされていくよう、共に祈りを合わせたいと思います。


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