2018年11月18日  聖霊降臨後第二六主日  マルコによる福音書12章41〜44
「やもめの献げ物」
  説教者:高野 公雄 師

  《41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」》

  きょうの御言葉は、「やもめの献金」という小見出しの記事ですが、その直前には「律法学者を非難する」という小見出しの記事が置かれています。律法学者と貧しいやもめでは、社会的な地位や立場がまったく違いますが、この二つの記事は繋がりがあります。明らかに、「律法学者たち」の信仰の態度と、貧しいやもめ(寡婦)の献金の姿勢に表されている信仰の態度が対照的に記されているのです。
  では、イエスさまは群衆に向かって、律法学者のどのような態度を非難しているのでしょうか。マルコ12章38〜40に、《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」》、と記されています。これはすべて、律法学者たちが自分たちは宗教的に上の位にいることを絶えず示そうとすることから生じる偽善です。
  宗教的な偽善が起こるのは、私たちが神の前に、一人の罪人として立とうとしないからです。神の前に立ちながら、自分には少しはましなところがあるなどと、密かに自分を誇ろうとしているから、偽善が起こるのでしょう。しかし、偽善の原因をさらに遡れば、律法には律法の要求を実現する力がないからです。律法ではなく、福音によって、つまり神の恵みの力が私たちに与えられて初めて、律法は成就され、偽善は克服されることになるのです。
  律法学者は、当時のユダヤ社会において最も信仰深い人、人々を信仰の道へと導く人として尊敬されていました。そのように信仰深いと思われている人であっても、あのような「目せかけ」の行為に引きずかれていってしまいます。イエスさまは、そういう誘惑に誰もがさらされているのですから、あなたがたも気をつけなさいと言っているのです。
  神は目に見えませんから、いつの間にか目に見えるものに心を引かれてしまいます。それは、人々に重んじられることであったり、社会的地位であったり、富であったりするわけです。これらのものは、私たちがイエスさまに出会う前に、とても大切にしていたものです。しかし、イエスさまの救いにあずかって変わりました。私たちは、人の目や人の評価ばかりを気にして、それを得ようとして一生懸命になるのではありません。神に喜ばれる、神の御心に適う道を歩んでいくのが、私たちの新しい歩みです。私たちはそのように生きる道を変えたはずなのですが、いつの間にか、目に見えるものの誘惑に負けてしまうということが起こるわけです。
  信仰者として神の御前に生きるということは、神に愛されている自分を知らされ、その愛の中に生きることです。恵みの神がこの自分をどのように見てくださっているかという神による評価は絶対的なものであって、人からの評価によって私たちの価値は変わるものではありません。ですから、そこに安心していられるわけです。しかし、この神の御前に生きるということが忘れられてしまうと、自分の価値が自分では分からず、その結果、人は自分をどう見ているのかということばかりが気になってしまうのです。私たちも、この点において、律法学者たちに決して引けを取らないのではないでしょうか。
  この律法学者とはまったく異なる信仰の態度について記されているのが、「やもめの献金」をめぐるきょうの御言葉です。
  エルサレム神殿の賽銭箱は四角い木箱ではなくて、金属でできていて、投げ入れ口がラッパのように口が開いた形でした。お金を入れると音がするのです。小さな軽い硬貨を投げ入れれば小さな音しかしませんが、大きな重い金貨を投げ入れれば大きな音がするわけです。イエスさまはその音を聞いて、このやもめが投げ入れたお金が、レプトン銅貨二枚であることが分かったのでしょう。このレプトン銅貨というのは一番小さな銅貨で、現在の日本の生活感覚からすれば百円玉ぐらいになるでしょう。一方、大勢の金持ちたちは、大きな銀貨をたくさん投げ入れ、大きな音を立てていました。
  イエスさまは、《この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである》、と言われました。ここでイエスさまは、献げた金額を比較したのでもなければ、献げた金額が財産に占める割合を比較したのでもありません。そもそも、献金を人と比較するということ自体、意味がないのです。イエスさまは、神にささげる献金でさえも人と比べて、自分の方が多いとか少ないとかと心を動かす私たちを見抜いて、そんなことはまったく意味がないことを、「やもめの献金は誰よりも多い」と言うことによって教えようとしているのです。
  このやもめの姿は信仰の本質をよく表しています。人間はふつう自分が持っているものの中の余りを神に献げて、神から良いものを手に入れようとしています。自分の生活基盤を確保した上で、外にいる神を利用しようとする態度です。それに対してこのやもめは、自分の貧しさの中から、自己のすべてを神に投げ入れ、委ねきっています。それが聖書のいう信仰です。
  信仰の歩みにおいて、献金はとても大切なものです。それは、私たちが礼拝の中で献金するときに、「献身のしるしとして献げます」と祈るように、献金は献身のしるしだからです。私たちの献身の思いが、そこに現れるから大切です。献金というものは神と自分との間で決めることですから、相場などというものはありません。「皆はいくらしているのか」ということを考え始めると、それはもう献金ではなくなってしまうのです。献金は、サークルや団体の会費といったものとはまったく違います。神への感謝、神への愛、神への献身のしるしなのですから、人と比べようがないのです。献金というものは献身のしるしなのですから、献身のない所に献金もないのです。イエスさまはここで、献身するとはどういうことなのかを示しているのです。
  献身というのは、神に愛されていることを知らされ、神の御手にある明日を信じ、神の御手の中にすべてを委ねて歩み出すことです。ですから、このやもめは、《自分の持っている物をすべて、生活費を全部》献げたのです。これは、金額の問題ではありません。神に対する姿勢の問題です。ここで「生活費」というのは、自分の生活、命そのものを、神に献げるということが言われているのです。「生活費」と訳されている言葉の原意は、「人生」「生活」です。自分の持っているすべてをゼロにして、ただ将来を神に委ねきって生きようとする姿勢、それをイエスさまは弟子たちに言っているのです。
  このやもめは自分のすべてを献げた、つまり、完全に献身したということです。律法学者と比べるならば、この人には、金も地位も力も何もありません。しかし、神を愛し、神を信頼し、神の御手に自分のすべてを委ね、献げたのです。彼女の祈りは、ただ神の恵みに感謝し、神の憐れみをひたすら乞うものだったことでしょう。そして、明日のことを思い煩うことなく自分自身を献げ、神にすべてを委ねます。イエスさまは、このやもめの姿に、信仰者としてのあるべき姿を見たのです。
  しかし、私たちは、そのような態度を自ら到達すべき目標のように掲げて自分の力によって努力してつかみ取ることが求められているのではありません。私たちは、人々の目を気にする態度から自由ではありません。どんな業にも人の目を気にする態度がつきまとうのです。しかし、そのような中で、大切なのは、愛の眼差しを注いでくださるイエスさまに目を向けることです。イエスさまはこの数日後には十字架に付けられます。それは、人々の罪をご自分の身に引き受けて、償いをしてくださったという出来事です。十字架でご自分を献げきることによって、文字通り「自分の持っている物をすべて、生活費を全部」献げてくださったのです。イエスさまは、乏しい中から献げたのではありません。満ちあふれる豊かさ、「有り余る」ほどの豊かな富を持っていながら、その一部ではなく、すべてを献げてくださったのです。私たちではなく、イエスさまが私たちにご自分をすべて献げてくださったその恵みの中で、私たちも献げるのです。そこから生まれる信仰生活は、人の目を気にし、優越感や劣等感を持つことから自由にされた、本当に豊かなものとなるのです。その恵みにおいて、ただイエスさまの眼差しに見守られて、人々に対する見せかけの信仰に生きることから解放されて、自分のすべてを父なる神と御子イエスさまに委ね、献げつつ歩む者とされるのです。


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