2018年11月25日  聖霊降臨後最終主日  マルコによる福音書13章24〜31
「再臨のしるし」
  説教者:高野 公雄 師

  《24 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、25 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
  28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」》


  「それらの日」というのは、聖書に特有の表現で、現在の古い世界の終末と、そのあとの新しい世界の到来を指しています。旧約聖書では「それらの日」すなわち終末は審判の日として語られ、地の上に行われる審判に呼応して天にも大きな異変が起こることが預言されています。しかし、福音書では終末は栄光の「人の子」が現れる時、救いの時であると宣言しています。つまり、終わりの日は悲しむべき「裁きの日」ではなく、それは「喜びの日」であると説いているのです。イエスさまの恵みを知っている私たちは、そのことを信じて、ルカ福音書に《このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ》(ルカ21章28)とあるように、終末に対して身を起こし頭を上げて待ち望むのです。
  また、ここで「人の子」というのは、終わりの日に来る救い主のことで、イエスさまのことです。この「人の子」という称号は、ダニエル書の「人の子」預言と深い関わりがあります。《夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り  『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み  権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え  彼の支配はとこしえに続き  その統治は滅びることがない》(ダニエル7章13〜14)。この表現は、若い神バアルが老いた天の神エルから支配権を引き継ぐというカナン神話から来たものです。福音書はそのような神話が起源である表現を使わず、「人の子」が神から支配権を授けられることは、「キリストは神の右に座し」というように表現しています。《あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る》(マルコ14章62)。
  終わりの日にイエスさまがふたたび来ることを教会ではイエスさまの「再臨」と言います。《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める》と言われていることです。
  イエスさまが二千年前のクリスマスに来たときは、この赤ちゃんが救い主だとは分かりませんでした。そのことを知らされたのは、ヨセフとマリア、そして何人かの羊飼いと東方の博士たちだけでした。しかし、再臨の時はそうではありません。誰が見ても分かる仕方で来るのです。イエスさまが弟子たちに《稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる》(ルカ17章24、マタイ24章27)と語ったとおりです。この言葉は、弟子たちが置かれている状況がどのように苦しく絶望的であっても、地上の状況とは無関係に突如として神の支配が現れ、「人の子」の日が来ることを語っています。それゆえ、弟子たちの地上の日々は時々刻々、どの瞬間も「人の子の日」に直面しているのだということを教えています。そして、世界中から「選ばれた人たち」を呼び集めるのです。そして、新しい世界、永遠の命にあずかる神の国が完成し、私たちの救いが完成されるのです。
  イエスさまの再臨と共にやって来る終わりの日、これが本来の終末ですが、これを大きな終末と呼ぶなら、私たちに各々、確実にやって来る「死」という終わりの日は、小さな終末と呼ぶことができます。大きな終末も小さな終末も、これから逃れられる人は一人もいません。誰にでも例外なくやって来ます。そして、大きな終末を知り、それに備えて生きる者は、この小さな終末に対しても備えをしていると言って良いのです。

  その時に備える心構えを、イエスさまは次の段落「いちじくの木の教え」において、たとえを用いて説いています。《いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい》。いちじくの木は、当時のユダヤにおいて最も一般的に見られる木の一つでした。冬には葉を落とし、夏が近づくと葉を茂らせるというように、季節の移り変わりをはっきりと見せる木です。しかし、イエスさまはここで、そのような自然現象を見て季節の変化を感じなさいと言いたいわけではありません。そうではなくて、季節は移り、時は過ぎることを知るならば、「やがて終わりが来ること」を悟れと言われたのです。私たちは、年々、時の巡りが早くなるのを感じるでしょう。それは、やがて終わりが来るということなのです。そのことを悟れとイエスさまは言っているのです。
  世の終わりである終末についてはあまりピンと来ない人でも、自分の人生に終わりがあることは分かります。この大きな終末と小さな終末には重なるところがあります。それは、この世界にしても、自分の人生にしても、それが閉じられることによって完全に終わってしまうのではないということです。大きな終末は、ここでイエスさまが《人の子が戸口に近づいていると悟りなさい》と言われたように、「人の子」つまりイエスさま御自身がふたたび来られます。そのことによって、この目に見える世界は終わり、新しい世界が来るわけです。それと同じように、小さな終末、私たちの人生は死をもって終わるのですけれど、それですべてが終わるのではありません。死の向こうに、復活の命によみがえってイエスさまとふたたびお会いするのです。私たちは、このことを悟れと言われているのです。
  毎日のように、戦争が続いている、テロがあった、大きな地震があった、飢饉がある、経済的な危機が迫っている、そのような報道があります。それらは、イエスさまがこのマルコ福音書12章ですべて告げていることです。そういうことは起きるのですけれども、それが世の終わりではないとイエスさまは明言します。しかし、そういうことが起きたなら、悟らなければなりません。イエスさまがふたたび来る。世の終わりが来る。そのことを悟れ。そうイエスさまは言われたのです。
  悟ってどうするのでしょうか。いつ終わりが来ても良いように備えて生きよ、ということです。この「終わりがいつ来ても良いように生きる」、そのことが次の段落「目を覚ましていなさい」で語られます。そこでイエスさまは、《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである》(マルコ13章32〜33)と諭します。
  そう諭す前に、イエスさまは、《天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》と宣言しています。天地は滅びる。それがいつ来るのかは分からない。でも、心配することはありません。なぜなら、イエスさまが語った言葉、救いの約束、それは決して滅びないからです。天地が滅びても滅びることのないイエスさまの言葉は、この世界が終わるとき、イエスさまがふたたび来て世界を新しくされるという救いの約束です。それは、御心が天になるごとく地にもなる、そのような世界を造られるということであり、この地上での生涯を閉じた者が、そのときイエスさまの御前に復活させられるという約束です。肉体の死を超えた永遠の命、復活の命を与えてくださるという救いの約束です。その約束は確かなことだから、いつ終わっても良いように「目を覚まして生きよ」と言われたのです。それは、今日もそして明日も、神を信頼して生きようと、一日一日を神を信頼して生きていくということなのです。
  私たちが主の日のたびごとに教会に集まって礼拝を守るのは、終わりの日への備えをしていることでもあります。この礼拝において、私たちはイエスさまの御言葉、イエスさまが与えてくださった救いの約束が確かなものであることを心に刻み、その御言葉を信頼して、新しい一週へと歩み出していくのです。その新しい一週間の歩みとは、ただ時が過ぎていく一週間ではなく、明確に神の国に向かっての、イエスさまがふたたび来られる日に向かっての歩みです。この礼拝において、私たちは祈る者としての姿勢を正され、イエスさまの教えを聞き、愛に生きる者としての志を新たにされるのです。この神との交わりこそ、イエスさまが来られるとき、神の国が完成し、新しい天と新しい地において、永遠の命、復活の命を与えられる私たちに備えられている救いの先取りです。この礼拝こそ、天地が滅びても決して滅びることのない、イエスさまの救いの約束の確かさを味わう時なのです。


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