2018年3月25日  受難主日  マルコによる福音書15章1〜39
「主イエス・キリストの受難」
  説教者:高野 公雄 師

  《33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った》。
  この福音書は、《神の子イエス・キリストの福音の初め》(1章1)という標題で始まりますが、その「イエス・キリストの福音」の内容は、このイエスさまの十字架において明らかになります。また、イエスさまの宣教の第一声は、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)というものでしたが、この「時は満ち、神の国は近づいた」というのは、イエスさまの十字架の出来事によって、ついに神の支配、神の救いがわたしたちにもたらされたということです。そして、「悔い改めて福音を信じ」ることは、このイエスさまの十字架の前に立って、十字架にかかったイエスさまを見上げるときに起きることです。
  その意味で、きょうの御言葉において、ローマの百人隊長がイエスさまの十字架を見て、《本当に、この人は神の子だった》と告白していますが、この百人隊長の告白こそ、マルコ福音書が告げたかったことであったと言って良いと思います。わたしたちも、今朝、何よりもイエスさまの十字架を見上げて、この百人隊長と共に、この告白へと導かれたいと願っています。
  さて、イエスさまは朝の9時に十字架につけられ(15章25)、午後3時に息を引き取るまで、6時間にわたって死の苦しみを受けました。ですから、わたしたちが死の苦しみを味わうときにも、イエスさまは同じ苦しみを味わった者として、共にいてくださることができるのです。わたしたちは、たとえ死ぬ時でさえも独りではありません。死の苦しみを味わわれたイエスさまが共にいてくださるからです。
  その間、《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》、と聖書は記しています。それは、まことの神でありまことの光であるイエスさまが死のうとしている、この世界に光が消えようとしていることを告げているのでしょう。そしてまた、神の独り子が死ぬことを、父なる神がどれほど御心を痛め、嘆かれたかということをも示しているのではないかと思います。
  イエスさまは十字架の上で、《エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ》、と大声で叫ばれて、息を引き取られました。これはイエスさまがいつも話されていたアラム語です。ですから、福音書記者のマルコは、イエスさまが十字架の上で叫ばれた言葉をそのまま記憶するようにと、書き記したのでしょう。どうしてイエスさまはこの言葉を叫ばれたのでしょうか。そして、どうしてマルコは、キリストの教会は、この言葉を決して忘れてはならない言葉として記憶しようとしたのでしょうか。マルコがこのように書き残したのは、このイエスさまの言葉の中に最も明確に、イエスさまとは誰であり、イエスさまの十字架とは何であるかということが示されている、と信じていたからです。そうであれば、それは何かということが大事になってきます。
  この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫び、《これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である》。まさに悲痛な叫びです。イエスさまは、本当にこのとき、神に見捨てられたのです。神の独り子であるイエスさまが、わたしのたちの一切の罪を贖う完全な犠牲となって、わが身を献げてくださったのです。神に捨てられることの深い苦しみを叫ばれたのです。このイエスさまが父なる神に捨てられる痛み、嘆き、苦しみと同じものを、このとき父なる神もまた味わわれたのだと思います。父なる神と子なるキリストは、この十字架の死においても、その痛みと嘆きと苦しみにおいて一つでありました。捨てる側と捨てられる側との立場を超えて、一つであったのです。
  しかし問題は、なぜイエスさまは、また父なる神は、そのような痛みを、嘆きを、苦しみを味わわなければならなかったのかということです。その答えは、わたしたちへの愛のゆえにです。イエスさまは十字架の上で、わたしたちのために、わたしたちに代わって神に捨てられたということなのです。父なる神は、罪に満ちたわたしたちを見捨てることがないようにと、わたしたちに代わってイエスさまを見捨てったのです。イエスさまは、わたしたちに代わって神に見捨てられ、わたしたちに代わって十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのです。すべての人の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを、イエスさまはこの十字架の上で引き受けたのです。わたしたちが、もはや「わたしは神に見捨てられた」と叫ばなくて良いようにです。
  イエスさまは十字架の上で死なれましたが、三日目に復活しました。このイエスさまの十字架は、復活とひとつながりのものとして、キリスト者は受け取ってきました。そのようなキリスト者にとって、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という祈りは、そう祈るしかない苦しみの現実の中でこの祈りをささげるとき、自分のこの祈りがイエスさまの十字架の祈りと一つにされて、それゆえ確かに神に届き、やがてイエスさまの復活と一つにされる明日が備えられることを信じることができる、そのような祈りとして祈られたのではないかと思うのです。
  この叫びは、謎の言葉として何とか理解しようと考える対象としての言葉ではなく、イエスさまが十字架の苦しみの中で与えてくれた祈り、どんな困難な時でも神の前からわたしたちが離れることがないようにと与えてくれた祈りとなるのです。そして、この祈りが自分の祈りとなるとき、わたしたちはイエスさまの復活の命に与る希望をも与えられることになるのです。   このイエスさまの言葉を聞いて誤解した人がいました。《そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた》。その一方、イエスさまを十字架につけることを自分の職務としていたローマの百人隊長は、イエスさまが息を引き取るのを見て、《本当に、この人は神の子であった》、と告白します。この百人隊長の告白に、代々のキリスト者たちは、自分自身を重ねてきました。わたしたちもそうです。神など知らず、それゆえ神を拝むことも、祈ることも、御言葉に従うことも知りませんでした。そのわたしたちが、イエスさまの十字架を見上げ、「本当に、この人は神の子だった。」と告白し、イエスさまを礼拝しているのです。   なぜ、この百人隊長は、イエスさまを神の子と告白することができたのでしょうか。聖書はただこう告げています。《百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった。』と言った》。この百人隊長は「イエスの方を向いて、そばに立っていた」のです。その彼が「本当に、この人は神の子だった」と告白した、と告げているのです。このことは、イエスさまの十字架をはっきりときちんと見続けるならば、異邦人であろうと誰であろうと、「本当に、この人は神の子だった」という告白に至るのだ、ということなのです。
  十字架のイエスさまをはっきりと見るということは、昔々イエスという人が十字架につけられて殺されたというように見ることではありません。そうではなくて、自分のために、自分に代わって、イエス・キリストが十字架に上げられ、苦しんで死んだということを見るということです。そうしたら、「本当に、この人は神の子だった」と告白せざるを得なくなる、そう聖書は告げているのです。イエスさまは、わたしのために、わたしに代わって、わたしの一切の罪の裁きを受けたのです。それがイエスさまの十字架です。ここに神の愛は極まりました。愛する我が子を、自分に敵対する罪人のために、代わって裁く、まことにあり得ない愛です。それが神の愛なのです。
  しっかりと十字架のイエスさまの方を向いて、そばに立つ。わたしたちに信仰が与えられるためには、どうしてもこのことが必要なのでしょう。この主の日の礼拝に集うとは、わたしたちが十字架のイエスさまの方を向いて、その御前に立つということです。イエスさまの十字架から目をそらさないで、御前に立ち、十字架のイエスさまが自分に語られる言葉を聞く。そうすれば、この方が誰であるのかを知るようになります。イエスさまの十字架のもとに、わたしたちの立つべき所があるのです。
  「わが罪とがを主は負いたもう。主はわがために苦しみたもう。われここに立つ、恵みの主よ、愛のまなざしそそぎたまえ」(教会讃美歌81番2節)。


inserted by FC2 system