2018年4月8日  復活後第一主日  マルコによる福音書16章9〜18
「復活したイエスの出現」
  説教者:高野 公雄 師

  《9 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった》。   マルコによる福音書はもともと16章8で終わっていましたが、復活したイエスさまと出会う場面無しに終わるのでは心許ない。そう考えた後代の人が後から9節以下の「結び一」、「結び二」を書き加えたと考えられています。加筆されたのは、福音書の本体が書かれてからおよそ4、50年後の紀元100年頃のようです。加筆の内容は、9〜11節が、マタイ28章とヨハネ20章に記されているイエスさまの復活の場面を要約したもの、12〜13節が、ルカ24章のイエスさまの復活の場面を要約したものとなっています。
  マルコ福音書には復活しイエスさまと弟子たちの出会いの話はもともとなかったとは言え、マルコ福音書を記した人がイエスさまの復活の出来事はなかったと考えていたわけではなく、イエスさまの復活は自明のことでした。マルコは福音書の冒頭、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始めましたが、イエスさまが神の子であることは、何よりも復活によって明らかにされたことです。その復活した神の子であるイエスさまがこの地上の歩みにおいて何を語り、何をしたのか、そのことをマルコは福音書として記したのです。ですから、復活は言うまでもない前提であって、天使による告知以上のことを記す必要はないと考えたのでしょう。
  さて、9〜11節には、マグダラのマリアが復活したイエスさまに最初に出会ったこと、そしてマリアはそのことを知らせたけれど、みんなは《信じなかった》ことが記されてます。また、12〜13節には、エマオ途上において二人の弟子がイエスさまと出会ったときのことが要約されています。そしてこの二人も他の弟子たちに知らせましたが、みんなはそれを《信じなかった》と記されています。この「信じなかった」ということはマタイ、ヨハネ、ルカには記されていないのに、ここでは「信じなかった」という言葉が繰り返し告げられ、強調されています。14節以下でも、《復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった》と記されています。なぜ「結び」を書いた人は「信じなかった」ことを強調しているのでしょうか。その理由は二つ考えられます。
  一つは、弟子たちは本当に信じられなかったので、その通りに記したということです。じつはマタイ、ルカ、ヨハネ福音書においても、イエスさまが復活したという話を「聞いて信じた」ということは、どこにも記されていません。イエスさまの復活を信じた人は、復活したイエスさまに出会った人なのです。イエスさまの復活という出来事は、本当に復活したイエスさまに出会うということ無しに信じることなどできるものではないのです。しかも、復活を信じるとは、ただ死んだイエスさまが死からよみがえったという事実を受け入れるだけのことではありません。わたしたちの罪を背負って十字架についてくださった方がよみがえったということを信じることです。それは、イエスさまをよみがえらせた神がいるということ、その神の愛を信じるということであり、神と交わりを持って生きるということなのです。そしてその愛を信じることは、自力では無理なのです。神の方からわたしたちの不信仰と心のかたくなさを開いてもらうほかに救われる道はありません。マルコ福音書の「結び」を記した人は、このキリスト教信仰における当たり前のことを記したのだと思います。
  そして、じつは、イエスさまの復活とイエスさまの福音は、ここに「信じなかった」と書かれた人々によって宣べ伝えられてきました。つまり、この信じなかった人々が信じる者とされて、このマルコ福音書に記されているようなイエスさまの言葉と業とが伝えられてきたのです。ですから、この「結び」を記した人もそういう一人として、今は信じられない人々も神の霊によって心が開かれる時がかならず来ると信じているのです。ここで「信じなかった」と繰り返し強調することによって、この福音書に触れる人に向かって、復活信仰へと招いているのです。これが、誰もが信じなかったことが強調される二つ目の理由です。

  《14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」》。
  十一人の弟子たちが食事をしているところに復活したイエスさまが現れることは、ルカ24章を思い起こさせます。そしてこのとき、イエスさまは十一人の弟子たちを咎められました。復活の知らせを聞きながら、信じなかったからです。しかし、そのような不信仰で心のかたくなな者に、復活したイエスさまはその御姿を現して、信じる者に変えてくださったのです。そして、イエスさまが昇天された後に生きるわたしたちに対しては、天から聖霊を送って、不信仰なわたしたちの心を開いてくださるのです。わたしたちにとって、復活を信じることは「見ないで信じる」(ヨハネ20章29)ということになります。
  この信じない者が信じる者に変えられて、自分の弱さを自覚した者たちに世界伝道への使命が与えられるのです。この復活のイエスさまによる世界伝道への大命令は、マタイ28章が記すことと重なります。
  さて、16節のイエスさまの言葉は注意して読まなければなりません。《信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける》。これを「信じて洗礼を受けキリスト者となったわたしたちは救われるけれども、信じない人は滅びるのだ」と、自分たちを救われる側に置いて、まだイエスさまと出会っていない人々を滅びる者として見下すなら、このイエスさまの言葉を全く間違って受け取っています。信じない者であって、滅びの宣告を受けるしかなかったわたしたちが、今は信じて洗礼を受け、救いに与る者とされている。何というすばらしい恵みかと、そのようにこの御言葉は受け取らなければなりません。イエスさまが自分のために自分に代わって十字架につき、復活して、神との親しい交わり、永遠の命への道を開いてくださったのです。人が罪に定められるということ、人が裁かれるという問題は、どういう人が裁かれどういう人が罪に定められるかという問題としてではなく、自分がどういう状態になったら裁かれるかという、自分の問題として考えなくてなりません。十字架の恵みを受け取らなければ自分は滅んでしまうということを真剣に受け止める。そのようにここを読みたいと思います。それゆえに、この救いへと人々を招いていかなければならないということなのです。
  じつに独り子イエスさまを十字架につけるほどの愛をもって、神はわたしたち一人ひとりを愛してくださっています。わたしたちが伝えなければならない福音とは、そのことです。神はあなたを愛してくださっている。神はあなたのことを忘れてもいないし、放って置かれることも決してない。あなたのために必ず道を開いてくださり、導いてくださる。そのことをわたしたち自身が信じて、目の前にいる一人ひとりに伝えていくのです。
  神の愛を伝える伝道は、伝える者が伝える相手の人をまず愛さなくては伝えようがありません。そのことが17〜18節で告げられていることではないかと思います。信じる者は福音を宣べ伝える。神の愛を伝える。そこで「しるし」というものが神によって与えられるというのです。この「しるし」は、ここでは「悪霊を追い出す」、「新しい言葉を語る」、「毒を飲んでも害を受けない」、「病人に手を置いて癒やす」という4つのことが告げられています。
  ただこれは、すべてのキリスト者がいつでもどこでも行えるということでもありません。しかし、このことは形を変えながら、キリストの教会においていつも担われてきたことでもあります。それは、教育・医療・福祉という分野において、キリストの教会はこの「しるし」となる働きを担ってきたということです。神の愛を伝える福音の言葉は、愛の業と一つになって、説得力のある言葉として伝えられてきたのです。伝道していく中で「しるし」が与えられることを、わたしたちは信じたいと思います。それと同時に、《よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない》(マタイ12章39)、とイエスさまが言われたように、しるしはヨナのしるし、すなわちイエスさまの復活のしるし以外には与えられないということも、覚えておきたいと思います。そして、《全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい》との復活のイエスさまの言葉に、いよいよ従っていくものでありたいと願います。


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