2018年2月18日  四旬節第一主日  マルコによる福音書1章12〜13
「イエス 誘惑を受ける」
  説教者:高野 公雄 師

  《12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。》
  きょうの個所の直前には、イエスさまがヨルダン川でヨハネからり洗礼を受けたことが書かれていました。洗礼を受けたとき、イエスさまは《天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを》(1章10)見ました。そして、《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(1章11)という天の声を聞きました。洗礼において、イエスさまは聖霊を注がれて、民を救う神の子としての使命を確認したのです。
  きょうの個所は、洗礼を受けたときに注がれたのと同じ神の霊が、イエスさまを直ちに荒れ野へ送り出したと語られています。この「送り出す」と訳されている言葉は「投げ出す」「追い出す」という、強制的にというニュアンスのある言葉です。イエスさまは神の霊に強く迫られて「荒れ野」(1章45では「人里離れた所」と訳されています)に出て行ったのです。イエスさまは、聖霊を注がれ、天からの声を受けて、人を救うために自らが苦難を負う救い主としての使命を受け取りました。いまその使命をまっとうするために、荒れ野にひとり出て行って、試練を受けることによって、神との交わりを深め、絆を固くするのです。試練には苦難がともないます。その苦難に耐えてよりいっそう神との絆を強くするのか、それとも困難と孤独から逃れようとする誘惑に負けて神から離れてしまうのかという信仰の危機に直面します。
  ここに用いられた「誘惑」と言う言葉は、「試練」とも訳される言葉です。同じ言葉が日本語聖書では、神が人をご自分に近づけようとするときには「試練」と訳され、反対にサタンが人を神から引き離そうとするときには「誘惑」と訳し分けられています。広辞苑によると、「試練」とは、「信仰・決心・実力の程度をこころみためすこと。また、そのための苦難」のことであり、「誘惑」とは「人を迷わせて、悪い道にさそいこむこと」と出ています。
  試練または試験はわたしたちにとって大事です。近頃は無人運転車の公道で実験が行われるまでに進歩していることが報じられています。さまざまな試験によって安全であることが確認されるまでは実用できないわけです。信仰も修練してしっかりしたものとすることが大切です。修練をしなければ成長はなく、むしろ弱くなっていきます。試練に遭うことは損のように見えて、実は益なのです。
  このように、試練と誘惑は表裏一体で、いっしょに起こります。サタンの誘惑というのは、わたしたちの中にある元々の罪の思いに呼応して生じるもので、わたしたちの外からだけやって来るものではありません。わたしたちの中に、それが好ましい、そうしたいという欲求がある。そこを突いてくるのです。ヤコブ書にこうあります。《試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです》(ヤコブ1章13〜14)。
  イエスさまがこの世に到来したことは、この神なき世界である荒れ野に救い主として来られたということです。イエスさまは「神の愛する子、神の心に適う方」です。そのお方が救い主としてのみ業を始めるに際して、神の霊によって荒れ野へ追い出され誘惑を受けました。しかし、荒れ野の経験はこの40日間で終わったのではなく、その後のイエスさまの歩みは、まさに荒れ野を経験しつづける歩みでした。十字架の出来事を目の前にして、ゲッセマネの園で祈ったことも誘惑です。イエスさまは、誘惑を受けられたけれども、人間とは違い、罪を犯しませんでした。このことは、人間と同じ誘惑に遭われて、人間の弱さを知っているということです。イエスさまは《アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように》(マルコ14章36)と、この祈りをもって誘惑に勝ちました。祈りをもって十字架の道へと立ち向かわれました。それは、何よりもわたしたち人間のためです。サタンの誘惑に遭い、自分は神から見捨てられた、自分は荒れ野としか思えない場所を歩んでいる、そのような人間のために、イエスさまが代わりに歩んでくださったのです。イエスさまはそのために人間の世界に来られました。そして誘惑を退けたのです。十字架の死から復活するとは、人間の罪に勝利をしたということです。もうすでにイエスさまが人間の罪を克服してくださっているのです。
  イエスさまが受けた誘惑の内容についてはこのマルコ福音書では語られず、ただイエスさまが聖霊に満たされてその誘惑と戦って、打ち勝ったことだけが書かれています。勝ったことは、誘惑を受けていた《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》とあることによって分かります。
  野獣たちがイエスさまの傍らにいて、仲間となっていました。創造のはじめ、エデンの園ではすべての動物と人間が共存し平和に暮らしていました。その楽園は人間の罪により失われていましたけれども、イエスさまによって回復されたということです。イザヤはこう預言していました。《狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く》(イザヤ11章6)。イエスさまの荒れ野における野獣との生活は、この預言の成就です。つまりこの一節は、イエスさまは荒れ野において野獣の危険にさらされていたけれども天使によって守られていたと言っているのではありません。そうではなくて、野獣たちと平和の内に共にいるという神の救いの完成のときに実現する恵みを先取りしているのです。天使たちが仕えていたというのも、その救いの完成を示すもう一つの「しるし」です。マルコはここで、イエスさまによって、神による救いのみ業がそのように新しく進展し、荒れ野のようなこの世を生きているわたしたちに新しい展望が開け、希望が与えられていることを示そうとしているのです。
  もちろん、イエスさまが荒れ野において野獣と一緒にいて、天使たちが仕えていたことだけで、神による救いのみ業が完成したわけではありません。この個所は、イエスさまによって実現する救いがもたらす平安、平和を先取りしているのであって、その実現は、この福音書がこれから語っていくイエスさまの生涯の全体によって、ことにも十字架の死と復活とによって与えられるのです。
  イエスさまは荒れ野でサタンの誘惑を受けました。そして、わたしたちが荒れ野のようなこの世で体験する苦しみや悲しみ、誘惑に負けてしまう弱さや罪のすべてを背負って、十字架にかかって死に、それらのすべてからわたしたちを解放し、復活によって新しい命の先駆けとなってくださいました。イエスさまの十字架と復活によって、神の救いのみ業は完成し、救いの道が切り開かれ、わたしたちの歩みに明るい前途が与えられたのです。

  わたしたちは地上を歩む限り、さまざまな誘惑から逃れることはできません。いろいろ試練に出会うのがわたしたちの歩みです。イエスさまが荒れ野で誘惑に遭われたのは、些細なことで神への信頼が動揺してしまう弱いわたしたちのためです。わたしたちの信仰の戦いは、このイエスさまにおける神の戦いによって支えられています。イエスさまの十字架の死と復活のゆえに、イエスさまは誘惑に勝利されたのです。イエスさまがサタンの誘惑をはっきりと退けることを通して、これから始まる神の国、神の支配のあり方が示されました。イエスさまが選び取った道は、ただ神の言葉を信じて従う道でした。
  イエスさまは荒れ野で何をしていたのでしょうか。1章35には、宣教に出かける前のイエスさまの姿が記されています。《朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた》とあります。ここで「人里離れた所」と言われているのは、「荒れ野」のことです。そこで、イエスさまは祈っています。わたしたちは荒れ野で神を信じることができなくなるかもしれません。祈ることができなくなるかもしれません。しかし、イエスさまは荒れ野で祈っておられます。試みに耐えつつ、わたしたちのために祈っていてくださるのです。
  イエスさまが「主の祈り」をわたしたちに与え、そこで「私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください」(ルーテル教会式文による。マタイ6章13参照)と祈るよう教えたのは、そういう意味なのです。わたしに助けを求めよ、わたしがあなたに代わって戦い退ける。そう言われたのです。わたしたちは弱い者です。しかし、イエスさまは強く、あらゆるサタンの誘惑を退けられたし、今も退けてくださるのです。イエスさまはわたしたちの代わりに試練に臨んでくださり、もうすでに勝ちを得ています。わたしたちはこの方に、すべてを委ねて、このお方を信じ歩んでいきたいと思います。


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