2018年1月21日  顕現節第三主日  マルコによる福音書1章14〜20
「ガリラヤ伝道開始と弟子獲得」
  説教者:高野 公雄 師

  《14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。》
  「ヨハネが捕えられて後」とありますが、ヨハネが捕えられることになった、その経緯については6章まで待たなければなりません。ヨハネはこの時代、非常に大きな影響力をもっていました。ヘロデ王自身、《ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し》(6章20)ていた、と書かれているほどです。そのヨハネが捕えられたのですから、これに続いて記されている《イエスはガリラヤに行き》(マタイでは「退き」)という言葉を、ヨハネが捕えられたので、自分も危ないと思って故郷のガリラヤに帰って、故郷でこっそりと伝道を始めた、そのように理解してしまうかもしれません。しかし、マルコがここで言おうとしているのは、イエスさまの先駆者である洗礼者ヨハネが捕えられて、ヨハネによる備えの時は終わり、ついにイエスさまによる宣教が開始されるという期待、待ちに待った救い主の御業がまさにこれから始まろうとしているという期待を記しているのです。そして、イエスさまもまた、ヨハネの後継者として捕えられる道、十字架へと引き渡される苦難の僕の道を歩んで行かれるのだということです。
  そのイエスさまが最初にガリラヤに行って語った言葉、それが15節のこの言葉です。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。ある聖書学者は、この言葉を説明したのが新約聖書だと言っています。新約聖書のメッセージを要約すると、この15節の言葉にまとめられるというわけです。それほどに、この短い言葉の中に、イエスさまの宣教の内容が含まれているのです。
  ですから、少していねいにこの言葉を見てみましょう。はじめに《時は満ち》と記されています。それは、これまでの時間がこのイエスさまの登場において頂点に達したという響きが読みとれます。このことについて、三つのことを指摘しておきたいと思います。
  一つ目は、「ローマの平和」という言葉があるように、この時代、ローマが地中海沿岸から内陸に向けて広大な土地を支配していました。このローマの強大な力によって民族の争い、国家同士の争いは沈静化し、世界全体に平和が訪れました。そういう時代に、イエスさまは登場したのです。そして、二つ目に、「すべての道はローマに通ず」と言われたとおり、道路網が整備されました。そのために、キリストの福音は瞬く間に世界中にもたらされる環境が整っていました。そして、三つ目に「言語の統一」です。この時代、みなギリシア語を共通語として使うようになっていました。
  旧約聖書のマラキ書からイエスさまの時代まで、400年の間、預言者たちを失い、イスラエルの民は世界中に離散してしまい、神への信仰が消えたように見えた時代に、神は着々とローマの力を用いて、福音が世界に届けられるための備えをしておられたのです。まさに「時は満ちた」と言い得る備えを主なる神は整えてくださって、イエスさまが宣教を始めたわけです。
  そして、イエスさまはつづけてこう語りました。《神の国は近づいた》。この「神の国」は、「天国」とも言うことのできる言葉で、ともすると、わたしたちは死後の世界を連想します。けれども、この「国」という言葉は、「支配」と訳すこともできる言葉です。聖書をケセン語に翻訳して、非常に分かりやすい言葉に置き換えたことで知られている山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、この「神の国」という言葉を「神様のお取り仕切り」と訳しました。「神の支配」というよりもさらに分かり易い表現です。イエスさまがこの世界にもたらした福音というのは、神がわたしたちの生活を取り仕切ってくださるということです。
  そして、こう言われました。《悔い改めて、福音を信じなさい》。500年前の10月31日にルターは「95カ条の提題」を貼りだしたとされています。その冒頭に、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」とあります。義なる神は人間にも義しさを求める。しかし、悲しいかな人間は「罪を犯さないことができない」のです。いくらがんばっても神の前で人は安心できない。このように、ルターは神の義を神の怒りと感じ、考えていましたが、ある日、修道院の塔の一室でローマ1章17を読んでいたら、《福音には、神の義が啓示されています。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現するのです》と書いてある。神の義というのは、人間を裁くための規範、呪いではなくて、福音だと書いてある。これはどういうことか。神は自らの「義しさ」を人間に無条件にプレゼントしてくださる、これこそが福音だということに気づきます。ならば人間は、恵みとして与えられたその「神の義」をそのまま素直に受けとればいい。これがルターの信仰の開眼です。その時以来、悔い改めはルターにとって神の前で自分にみじめさを突き付けられるものではなくて、神の赦しと出会う時となったのでした。
  「お前はどうしようもない奴だ」と攻め立てられて、「ごめんなさい」と重い口を開くのが悔い改めだ。わたしたちはつい、そう考えてしまいます。けれども、イエスさまは、ご自身がわたしたちの生活を取り仕切ってくださるという、素晴らしいプレゼントをわたしたちに持ってきてくださいました。ですから、これからは、自分で自分を取り仕切って、自分で自分の生活を支配していたのを、イエスさまにお任せしますと自分を明け渡す。これが、悔い改めです。
  この悔い改めなしに、わたしたちは神の福音に生きることはできません。このイエスさまがもたらしてくださった福音の中身は、まだ、ここでは語られていません。けれども、ここではすでにイエスさまがわたしたちの生活を取り仕切ってくださるということは語られています。そして、それこそが、人々が待ち望んでいたものです。このイエスさまにわたしたちを委ねるならば、わたしたちは確かな神の守りの中で生きることができるのです。

  《16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。》
  ここからは、いよいよ、イエスさまの伝道の姿が具体的に記されます。シモンとアンデレという漁師の兄弟と、ヤコブとヨハネという漁師の兄弟がイエスさまの弟子になりました。伝道の旅を始めるにあたって、イエスさまはまず初めに一緒に旅をする仲間を集められたのです。
  イエスさまはここで、《「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った》とあります。ここを読んで、わたしたちはもの足りない思いを抱きます。こんなにも簡単に人生を決定づける選択ができるものなのかと不思議に思います。誰もこんなに簡単な言葉でついていけるほど軽い人生をおくっていないはずです。けれども、《わたしについて来なさい》、この短い言葉の中に、イエスさまの深い思いが秘められているのです。このイエスさまの招きの言葉は、シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネという四人にだけ特別に語りかけられた言葉ではなくて、じつは、すべての人に語りかけられた言葉です。
  イエスさまについて行くということは、漁師としての生活を手放すわけで、その時から明日の保証のない生活になるということを意味していました。一時的に家族と関係が悪くなることもあり得たし、自分の生活だけではない、一緒に住む家族みんなを巻き込むことになることが予想されました。しかし、マルコ福音書はそのことを恐れずに、イエスさまに従うということは、それに優ることがあるということを示そうとしているのです。
  では、イエスさまに従うとどうなるというのでしょうか。イエスさまは、こう語りかけます。《わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう》。あなたは魚を獲るのではなく、人間を捕るようになる。人そのものを救いあげる生き方をするようになる。イエスさまは、こう語りかけて、人の心を捕らえたのです。
  誰にしても、人が信仰に至るのは、結局はイエスさまと出会うかどうかです。イエスさまを知るときに、そのお方に捕えられ、魅了されるのです。そして、このお方に私の人生を託そうと思えるようになるのです。そこには、イエスさまに期待する心が生じます。そこにはイエスさまにゆだねる平安があります。そして、そこには、本当の自分を取り戻す生きがいが秘められているのです。イエスさまは人間を漁る漁師です。わたしのことを、あなたのことを、イエスさまは良く知っていてくださいます。このイエスさまに従ってゆくとき、わたしたちは自由に、喜んで生きることができるようになるのです。


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