2018年1月28日  顕現節第四主日  マルコによる福音書1章21〜28
「説教と癒しの始め」
  説教者:高野 公雄 師

  《21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。》
  イエスさまは四人の弟子を召された後、彼らと共にカファルナウムという町に入りました。カファルナウムは、ガリラヤ湖の北西岸にある町で、弟子の一人のペトロの住まいもあったようです。ガリラヤ地方でのイエスさまの伝道活動は、この町を拠点にして行なわれたと考えられています。イエスさまがこの町に到着した日は、ユダヤ教の安息日にあたる土曜日でした。イエスさまは、さっそく会堂に向かいます。当時ユダヤ人のいる所ではどの町にも会堂があって、地域の人々は必ず安息日には会堂に集まって、聖書の朗読と勧めに耳を傾け、賛美と祈りを捧げていました。朗読されたみ言葉は、多くのばあい、その町のラビと呼ばれる律法学者によって解き明かされましたが、他の人が説教してはいけないということはなかったようです。イエスさまはこの会堂に入って教え始めます。すると、《人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》と記されています。
  「律法学者のように」教えるとは、どのようなことを言うのでしょうか。律法学者たちは、律法を守ることによって救われると考えていました。そのために、熱心に律法を研究し、教えていました。聖書にはこう書かれていると、その字句の解説をし、色々な注釈を付けて、その意味の説明をしたり、それを日常生活のさまざまな問題に適用して、するべきことや、してはいけないこと、しきたりや習慣を教えます。彼らはただ教えを説くだけでなく、それを生活の中で実践しようと努力していました。律法を正しく解釈し、それを徹底して守ることによって自らを権威づけようとしていたのです。
  イエスさまは、一教師としてそのような律法、戒めの数々を教えられたのではありません。このときに何を語ったのか、その内容は記されていませんが、イエスさまの教えの中心は、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい》(1章15)ということです。聖書の教えはすべて神の国の到来を目指している神の約束であり、その約束が福音、すなわち喜ばしい知らせです。そして、それが今ここに実現しょうとしている、今始まっている。イエスさまはそう宣言しました。このように、イエスさまは神から来た「権威ある者」として教えられたのです。

  《23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。》
  そのとき、会堂にいた人々はイエスさまの正体を知らず、ただ驚いているだけでした。それは、このときだけのことではありません。イエスさまはこの後も、繰り返しご自分が神の子であることを示し続けるのですが、人々はイエスさまのことを理解しませんでした。しかし、このイエスさまが神の言葉を語る「権威ある者」だということを誰よりも早く見抜き、そのことに一番早く敏感に反応をした人がいます。その場にいた「汚れた霊に取りつかれた男」です。この男は叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。これは、この人自身の言葉というよりも、この人に取りついている汚れた霊の言葉です。ここで「我々を滅ぼしに来たのか」と言っています。この人は、自分の考えや思いを語っているつもりで、実は悪霊の代弁者になっているのです。この人はイエスさまに対して《ナザレのイエス》と名前を呼び、《お前の正体は分かっている》と叫び声をあげています。古代では、相手の名前を呼ぶことも、相手の正体を見抜いていると知らせることも、自分が相手よりも優位にあることを意味しました。なお、「神の聖者」という称号は、おそらく最初期からイエスさまに与えられていた称号だと思われますが、この言い方は、この個所と、ヨハネ6章69にペトロの告白として出てくるだけです。また、この《かまわないでくれ》とは、口語訳聖書では《あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです》と訳されていました。この「汚れた霊」とは、まさにそのように、わたしたちとイエスさまとの関わりを断とうとする力です。イエス・キリストと自分とは関係ない、自分は自分の力だけでやっていきたいのだ、そのようにこの人に思わせ、語らせるのがこの汚れた霊の力です。この汚れた霊の力はわたしたち人間を、イエスさまの権威ある言葉から、離れさせ、関わりを断ち切る、神の良き支配が及んで来ることを拒もうとする力です。
  しかし、イエスさまはこの汚れた霊をそのままにはしておきません。汚れた霊に取りつかれた男に対してイエスさまは、《黙れ。この人から出て行け》と叱りつけます。「叱る」というのは、神の権限を示す時に使われる表現です。十字架を予告したイエスさまをいさめたペトロをイエスさまが叱って、《サタン、引き下がれ》(8章33)と言われたときの「叱る」と同じ言葉です。自らの道をふさごうとするものを激しく叱責されるのです。このイエスさまの言葉によって、《汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った》とあります。イエスさまの言葉が汚れた悪霊をこの人から追い出し、この人を悪しき霊の支配から解放します。神のよき支配の中へと再びこの人を取り戻しました。《人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」》とあります。汚れた霊を追い出したイエスさまの権威は、神の恵みの支配を実現するために、ご自分が十字架への道を歩み、裁かれることによって明らかに示され、確かなものになることになります。
  このイエスさまの力あるみ業は、イエスさまにおいて神ご自身が権威を持って生きて働いているということです。人間存在の根底のところにまで、神の力が達し、神の光が差し込んだのです。神の国と神の支配が来たのです。イエスさまが神のみ言葉を語る権威の現れとして悪霊に対する勝利が語られているのです。イエス・キリストこそこの世の光として来られたお方です。イエスさまはこの罪に満ちた世界に新しい光をもたらしてくださいました。
  きょうのみ言葉の最後に、次のように書かれています。《イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった》。悪霊が追い出された話を、現代を生きるわたしたちとは無縁なことと片付けることはできません。わたしたちもまた、神に抵抗する悪しき霊の支配下に置かれている人間です。あの男のように罪の支配のもとで自分で自分をコントロールできなくなることのある人間であって、どうしても神の良き支配を追い返そうとしてしまうものです。けれども神は悪しき霊に取りつかれたわたしたちを、つまり罪に捕らわれている人間を、そのまま見捨てることなく、わたしたちのところに来てくださいます。イエスさまを通して、そのもろもろの捕らわれからわたしたちを解き放ち、解放するために働いておられるのです。わたしたちの中には、神の良きみ心に逆らおうとする思いがあります。このような思いを断ち切るために、わたしたちのうちにはない、外から来る「神の権威」が必要なのです。イエス・キリストはそのような権威ある方として、わたしたちに出会ってくださったのです。罪の中にあるわたしたちにイエスさまは権威ある者として、権威ある新しい言葉を語ってくださったのです。新しいみ業を見た人々は目を見張りました。そして、神から離れていた人々が、再び神に帰り始めるようになりました。このイエスさまの「新しさ」は、もはや次のものによって古びることのない最終的な事態、すなわち終末の事態を指しています。イエスさまの言葉は終末の現実を地上にもたらす力ある言葉です。悪霊の追放や病気の癒しは、このようなイエスさまの言葉の質と次元を指し示す「しるし」だったのです。
  イエスさまの教えに触れるとき、わたしたちは、さまざまな霊の支配から解放されて、真の主の支配の下で、生きるものとなります。この方を自分の人生の主として歩むようになるのです。そして、自分自身を神に愛されているもの、神の民として認識して、神を讃美しつつ歩む者となります。それは、イエスさまによって始まっている神の支配を世に示す歩みです。この出来事の後、皆の驚きと共にイエスさまのことが《ガリラヤ地方の隅々にまで広がった》とあります。ここから、イエスさまの支配が、世に及んでいくのです。
  カファルナウムの会堂に入って来て教えられたイエスさまは、わたしたちの会堂にも来られて教えられます。わたしたちの礼拝においても権威ある言葉を語られるのです。この権威あるイエスさまの教えを聞きつつ、世にあって神の支配を知らされたものとして、しっかりと歩みたいと思います。


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