2018年1月14日  主の聖霊(顕現節第二主日)  マルコによる福音書1章9〜11
「イエス 洗礼を受ける」
  説教者:高野 公雄 師

  《9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》
  マルコ福音書の1章1〜8には洗礼者ヨハネのことが書かれていました。洗礼者ヨハネが旧約聖書に預言されていたように、救い主の道備えをする者として現れて、人々に洗礼を授ける運動を行いました。そして、自分よりも優れた方、つまり聖霊で洗礼をお授けになる方が後から来られる、と予告しました。ヨハネはこのように、人々の心を、これから登場するイエスさまへと向けさせ、イエスさまを迎える準備をさせる働きをしたのです。そして、いよいよ、きょうの個所で、イエスさまが登場します。《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来てヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた》。イエスさまの登場によって、まさに《神の子イエス・キリストの福音》(1章1)が始まったのです。イエスさまは、お育ちになった町ナザレからヨハネのところへ、ヨルダン川で洗礼を受けるために来ました。
  しかし、これは、わたしたちに戸惑いを与える出来事です。ヨハネは、《罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた》(1章4)のです。人々は、ヨハネのところに来て、自分の罪を告白し、その赦しを願って洗礼を受けました。そのような罪人が受ける洗礼を、神の子であるイエスさまが受けるとはどういうことでしょうか。またヨハネはイエスさまのことを《わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる》(1章7〜8)と語ったのです。イエスさまを神の子、救い主と信じる者たちにとって、イエスさまが洗礼を受けたという事実は謎に満ちています。そのような謎に満ちた出来事を、著者マルコはあえて正面に据えて、イエスさまが洗礼を受けた出来事にこそ、イエスさまがわたしたちのこの世界へ登場する意味がある、と語っているのです。
  では、イエスさまが洗礼を受けたことに、どのような意味があるのでしょうか。その意味は、イエスさまの受洗の直後に起こったことの中に示されています。イエスさまが《水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降ってくるのを、御覧になった》とあります。「水の中から上がると」というのは、当時の洗礼は全身を川の水につける、というものだったからです。するとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにイエスさまの上に降ってきました。「天が裂ける」というのは、イザヤ書63章19に出てくる言葉です。《あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。》とあります。主なる神とは違う力が、すでに長い間自分たちを支配している。神の御名によって呼ばれる、神の民としての歩みを奪われてしまっている。そのような苦しみの中で、どうか天を裂いて降ってください、わたしたちをもう一度統治してください、わたしたちをあなたの民としてください、と祈っているのです。「天が裂けて、霊が鳩のように降った」という言葉は、この祈りがかなえられたことを表しています。つまり、イエスさまの上に聖霊が降って、神の新しい恵みの御業が始まったということです。
  聖霊が降ったことによって、イエスさまは特別な使命、任務へと立てられました。その使命、任務の内容が、天からの声によって明らかにされます。《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》、この天からの語りかけは、いくつかの旧約聖書の言葉をその背景に持っています。「あなたはわたしの愛する子」という言葉については二つの個所が考えられます。一つは詩編2編7です。《主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」》。この詩は、王の即位の時に歌われたものです。神が王の即位において、その王を「お前はわたしの子」と呼ぶ、それによって王はその国を支配する権威を神から与えられるのです。ですから、イエスさまはこのとき、聖霊を与えられて、まことの王として立てられ、イエスさまによって神の恵みの支配が確立するのだということになります。それは、先ほどのイザヤ書63章19の「天を裂いて降ってください」という願いの実現ともつながることです。
  そして、《愛する子》という言葉は、もう一つの個所から来ているものと思われます。それは、イスラエルの民の先祖アブラハムが、やっとのことで与えられた独り息子イサクを「焼き尽くす献げ物」としてささげよ、と神に命じられた場面です。そのとき、神は《あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの山に行きなさい。・・・彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい》(創世記22章2)と命じたのです。神はきょうの個所においても、イエスさまに「あなたは、アブラハムにとってのイサクのように、わたしの愛する独り子だ」と語りかけられます。そしてそれは同時に、アブラハムがその最愛の独り子イサクを殺して献げなければならないという苦しみを受けたように、神が独り子イエスの命を犠牲にするという苦しみを背負われるということを示しています。アブラハムの場合は、神が最終的にはイサクの身代わりに雄羊が与えられました。けれども神の独り子イエスさまは、ご自分がわたしたち罪人の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださったのです。
  後半の《わたしの心に適う者》という言葉の背景にあるのは、先ほど朗読されたイザヤ書42章1です。《見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を》とあります。「わたしの心に適う者」という言葉は、この「わたしが喜び迎える者」から来ているのです。このイザヤ書42章は預言者イザヤの「捕囚の民」に宛てられている言葉です。遠くバビロンに連れ去られて、そこで捕らわれの憂き目にあっている人々への言葉です。そのような捕らわれた人々に、イザヤは「主の僕」について語ります。《見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す》(42章1)。彼は悪しき支配を打ち砕き、神の民を解放すると言います。けれども、驚いたことに、このような言葉が続きます。《彼は叫ばす、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする》(42章2〜3)。この「主の僕」は、人々が思い描く救い主とはまったく異なり、力をもって力を制するのではなく、弱い者の弱さを担いながら、神の救いの御業を遂行すると言うのです。このとき、解放されようとしている捕囚の民はまさに「傷ついた葦」、「暗くなってゆく灯心」のようでした。傷ついた葦を力ずくで引き抜いて別の場所に移し変えようとすれば、かえって傷口は広がり、すぐに枯れてしまうでしょう。今にも消えそうな灯心に少しでも強い風が吹いたならば、すぐに火は消えてしまうでしょう。捕囚の中にいる人間はまさにそのような傷ついた葦、暗くなってゆく灯心のような存在なのでした。そのような傷つき易い、消えそうな人間を生かし、慰め、癒す中で救いをもたらす道を切り開いてくださった方が主の僕です。これが、捕らわれの民に対して神のなさる救いの業です。
  「わたしの心に適う者」という言葉は、イエスさまの上に聖霊が降ることによって、まさにこのような「主の僕」として立てられたことを言います。主の僕は、人々の罪を背負って苦しみを受け、殺されることによって自らを贖いの献げ物としました。その犠牲によって、わたしたちに平和といやしとが与えられるのです。聖霊によって与えられたイエスさまの使命は、人々の罪のためにご自分を犠牲としてささげ、贖いの御業を成し遂げることだったのです。
  イエスさまが「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を受けたのは、「主の僕」としての使命を引き受けるためでした。主の僕が、罪のない者であるのに罪人のひとりに数えられることによって、本来罪人であるわたしたちは赦され救われるのです。イエスさまが洗礼を受けたのは、イエスさまがご自身を悔い改めるべき罪人の立場に置き、罪人のひとりになって、わたしたちと一つになってくださったということです。イエスさまが洗礼を受けてくださった、そこにわたしたちの福音の初めがあります。そして、その福音はイエスさまの十字架の死と復活において完成されました。そのイエスさまによって完成された救いにあずかるために、わたしたちは洗礼を受けます。洗礼によってわたしたちはイエス・キリストの十字架の死と復活の恵みにあずかり、キリストの体なる教会へ加えられるのです。神が愛する独り子をわたしたち罪人の中に遣わしてくださり、その御子イエス・キリストがわたしたちの罪を背負ってくださり、わたしたちが受けるべき十字架の死を引き受けてくださった。そして、わたしたちに赦しと命を与えてくださったのです。   《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》、この慰めに満ちた言葉は、イエスさまと一つにされたわたしたちにも向けられています。この恵みをしっかり受け止め、心から神をほめたたえたいと思います。


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