2018年6月3日  聖霊降臨後第二主日  マルコによる福音書2章1〜12
「中風の人  癒やされる」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。》
  きょうの福音書は、イエスさまが再びカファルナウムの町に戻って来て、そこで中風の人を癒やした個所です。これは、「癒やし」と「罪の赦し」とが結びつけられている大事なところです。イエスさまの病気の癒やしと罪からの救いが一つになっている個所は、ここ以外にありません。
  《数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった》、と始まります。「再びカファルナウムに」とありますが、イエスさまが初めてカファルナウムに来た時のことは、1章21以下に記されています。イエスさまが戻って来たと聞くと、大勢の人がイエスさまのもとに集まって来ました。イエスさまが「御言葉を語って」いた時のこと、屋根がはがされ、開いた穴から中風の人が寝ている床ごと、つり降ろされてきました。
  中風(ちゅうぶ)とは、今で言えば、脳梗塞あるいは脳出血による身体の麻痺、または重いパーキンソン病による症状を指しますが、昔は身体が麻痺状態になったのをすべて中風と言っていたのです。
  この中風の人を運んできた人も、中風の人も、ここに集まっていた人々も、みんなこの中風の人が癒やされることを求めていたはずです。しかし、イエスさまが告げたのは、《子よ、あなたの罪は赦される》というものでした。癒やされる前に罪が赦されたことは、癒やしは赦しのしるしであることが明確にされるためでしょう。「赦される」は「救われる」ことと「癒やされる」ことも同時に含まれています。
  このイエスさまの言葉に素早く反応したのが、律法学者たちです。彼らは、《心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒?している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」》。唯一の神だけが罪をゆるすことができる。それは正論ですが、イエスさまは、この律法学者たちの心の中で考えていることを見抜いて、こう問い返しました。《中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか》。律法学者たちは、病を癒やすという証拠も示さずに、ただ口先だけで「あなたの罪は赦される」と言うのは、たやすいことだと考えたのです。そこで、イエスさまは言います。《「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った》。イエスさまは中風の人を癒やし、床を担いで帰らせました。
  しかし、この「あなたの罪は赦される」という宣言の重さを、本当の意味で知っているのは、むしろイエスさまです。病を癒やす奇跡の言葉よりも、「あなたの罪は赦される」という言葉の方が、ずっとずっと重いことを、イエスさまはよく分かっているのです。わたしたちは、イエスさまの恵み、神の愛を、十字架において確信します。イエスさまは十字架の上で、《父よ、彼らをお赦しください》(ルカ23章34)と祈られました。罪をゆるす権威は、十字架の贖いにこそあります。イエスさまが与える救いは、神との和解、神に近くあることの幸いです。イエスさまはわたしたちにこう告げているのです。「すでに神の国は来ている、あなたがたはこの神の国に生きる者として招かれている、だから神に近くあることの幸いの中に生きる者となりなさい」。

  つぎに、もう一つの大切な点を見たいと思います。それは、イエスさまがこの中風の人に対して罪の赦しを宣言した時のことです。《イエスはその人たちの信仰を見て》、とあります。イエスさまは中風の人に対して罪の赦しを宣言したのですけれど、それは中風の人の信仰を見たからではなくて、この中風の人を運んできた四人の男たちの信仰を見たからでした。
  わたしたちは、自分の罪が赦されるためには自分の信仰が必要だと思っています。イエスさまはその人の信仰を見て癒やし、救う。その通りです。「このわたしが信じる」ということはとても大切です。しかし、罪の赦しは、わたしの信仰という「良き業」によって手に入れるものではありません。イエスさまがわたしたちを憐れんで、罪を赦そう、わたしたちを新しくしよう、そう思って与えてくださるものです。そしてその場合、罪を赦される人自身の信仰ではなく、その人がいやされることを願い、その人のために執りなす人の信仰を見て、イエスさまがその人を憐れむということもあるということです。
  じつは、このことは、わたしたちの罪が赦されることがどういうことなのかを示しています。わたしたちが罪を赦されたのは、わたしたちのために執りなしてくださったイエスさまの信仰が真実だからです。信仰によって救われるとは、イエスさまの真実によって救われるということです。執りなす者によって救われる。それが聖書が告げている、神が与える救いの筋道なのです。
  そしてまた、このことはわたしたちに重大な可能性を与えることになります。本人の信仰によってではなく、その人のために執りなす人の信仰によって、その人の罪が赦される可能性です。
  ふつう、わたしたちは信仰が与えられ、その信仰に基づいて洗礼を受け、神の子とされます。しかし、これが唯一の道ではないということです。自分の口で信仰を言い表すことができない人はどうなるのかという問いに、この可能性が答えることになります。例えば、重い知恵遅れの人、あるいは老いて痴呆になってしまった人、あるいは幼児のような、自分の口ではっきりとイエスさまを信じるということを言い表せない人の救いはどうなるのか。これに対して、《イエスはその人たちの信仰を見て》が重大な可能性を開くことになるのです。つまり、そのような人の救いを心から願い求め執りなす人、それは具体的には家族であり、その人を受け入れる教会ということになりますけれども、その執りなす人の信仰によってイエスさまが救ってくださることを信じて、教会はそのような人に洗礼を授けてきたのです。
  また、この《イエスはその人たちの信仰を見て》という言葉は、わたしたちの伝道の姿勢を問うことにもなります。このとき、この四人の男たちは、何とかして中風の人を癒やしたいと思って、イエスさまのもとに連れて来ました。イエスさまなら何とかしてくれるという信頼に対して、イエスさまは応えてくださったのです。わたしたちは隣人を本気で愛しているか。イエスさまは必ず何とかしてくださると信頼しているか。そのことが問われます。
  さらにこの時、四人の男たちは屋根をはがしてイエスさまの前につり下げるという、何ともはた迷惑なことをしました。彼らの中には、切迫した思いがあったからだと思います。イエスさまはこのような人たちを少しも責めませんでした。それどころか、彼らの中に、御自分に対しての信頼を見たのです。この四人の信仰は、イエスさまをまことの神の子と信じるような信仰ではなかったでしょう。イエスさまならきっと癒やしてくれる。そんな単純な信仰だったと思います。しかし、イエスさまはそれでも良しとされました。本気で、「今しかない」、「この方しかいない」、そう思っていたからでしょう。
  もちろん、何でも闇雲に突き進むのが良いとは思いません。神の時があるというのも本当でしょう。しかし、それを言い訳にしていてはいけないでしょう。神の国は近づいているからです。その人の救いを本当に願っているなら、その人を愛しているなら、そしてイエスさまが何とかしてくださると信じているなら、屋根をはがしてでもイエスさまのもとに連れてくる、そのような信仰が求められているということです。大切なのは、隣り人への愛と、イエスさまへの信頼です。ここに神の御業が現れるのです。わたしたちは愛と信頼が与えられるよう、切に祈り求めたいと思います。


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