2018年6月10日  聖霊降臨後第三主日  マルコによる福音書2章13〜17
「徴税人レビの召命」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。》
  話の発端は「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」ことにあります。「再び」とありますが、イエスさまが前に来たときは、この場所で、ガリラヤ湖で漁をしていた四人の漁師に声をかけて、弟子にしています(1章16以下)。今度は海辺で群衆に教えた帰り道でしょうか、通りがかった収税所の前に立ち止まり、レビをじっと見つめて、《わたしに従ってきなさい》と呼びかけました。すると、レビはただちに立ち上がってイエスさまに従い、弟子の群に加わったのです。
  福音書はレビが弟子となった心の動きは関心を抱いていません。福音書が関心をもつのは、ただイエスさまが目を留めて、「わたしに従いなさい」と声をかけてくださるということと、その呼びかけに応えて立ち上がり、イエスさまに従って行くとき、その人の人生が一変して新しくなるということだけです。このレビが、マタイ9章9以下に記されている徴税人もマタイと同一人物であるか否かは議論がありますが、わたしたちにとって重要なことは、徴税人がイエスさまの弟子として召されたという事実のほうです。
  当時の税については、マタイ17章25に《地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか》と出ています。「税」と訳された直接税(人頭税と土地税)と、「貢ぎ物」と訳された間接税(通商される物品にかかる税や道路や橋を通る税など)の二種類がありました。直接税は任命された役人が徴収しましたが、間接税は一定地域の徴税権を最高額で競り落した請負人が徴収に当たりました。この関税請負人が「徴税人の頭」(ルカ19章2、ザアカイ)であり、実際の徴税は下請けに雇った「徴税人」にさせていました。アルファイの子レビはこのような「徴税人」のひとりであって、カファルナウム近くの交通の要衝に設けられた「収税所」(すなわち関税徴収所)に座って、交易される物品に対する関税や通行税を徴収していたのです。
  関税請負人やその下請けの徴税人たちは、請け負った一定金額をローマ総督やヘロデ王家に収めればよいのですから、実際の徴税に当たっては民衆の無知につけこんだりして、できるだけ多額の税金を取って、私腹を肥やすのを常としていました。それでユダヤ教社会では、「徴税人」という職業は盗賊や詐欺師と同列に置かれ、不道徳な職業とされて、公職や法廷での証人の資格も認められず、民衆から蔑まれ村八分のような扱いを受けていました。「徴税人」が軽蔑された理由として、彼らが異教の支配権力に奉仕する者であるからという政治的理由や、徴税に当たって異教徒との接触から受ける祭儀的汚れという理由もあったでしょうが、おもな理由はやはり彼らの職業の不道徳性であったと考えられます。
  ところが、イエスさまはこの徴税人のレビに、「わたしに従いなさい。」と言って、御自分の弟子として召し出したのです。なぜ徴税人のレビが選ばれたのかは分かりませんが、はっきりしていることは、彼には神に誇れるようなところは何も無かったということです。そして彼はイエスさまに従い、弟子となりました。このレビの姿は、わたしたちと同じなわけです。

  《15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》
  さて、イエスさまの弟子となったレビは、イエスさまを食事に招きます。ここで、「食事の席に着く」と訳されている言葉は、日常の食事ではなく、「祝宴」を意味する言葉です。おそらく、レビはイエスさまのような神の人が徴税人である自分を弟子として受け入れてくださったことへの喜びと感謝から、また徴税人としてのこれまでの生涯に訣別することを世間に知らせるために、人を喜ばせる大きな散財をしたのでしょう。
  当時の食事というのは、わたしたちが考えている以上に宗教的意味を持っていました。一緒に食事をするということは、自分たちは同じ仲間であるということを意味しました。ですから、この時の食事には、イエスさまとその弟子たち以外に、一般のユダヤ人は多分いなかったでしょう。しかし、その場には多くの徴税人や罪人がいました。この「罪人」という言葉を、ある聖書は「見捨てられた者」と訳しています。レビの仲間たちは、当時の社会状況においては、そのような者とされていたということです。けれどもイエスさまは、そのような者を御自分の仲間として受け入れたのです。
  しかし、これを見ていたファリサイ派の律法学者は、なんということをするのか、とんでもないと考えます。《ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った》とあります。彼らにしてみれば、救われようのない汚れた徴税人や罪人なんかとどうして一緒に食事するのか、そう思ったのでしょう。
  「ファリサイ」とは、もともと「分離した(者)」という意味です。彼らは律法順守の熱心において一般民衆とは違った者であると自負し、自分たちこそ律法の基準にかなう者、すなわち「義人」であると自任していました。「ファリサイ派の律法学者」といえばユダヤ教社会では自他ともに認めるエリート、義人の中の義人でした。神の国とは、まさに自分たちのような正しい者たちのためにあるのであって、徴税人や罪人たちとは縁の無い所でなければならない、と思っていたのです。しかしイエスさまは、そうではないと言います。《イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』》。つまり、イエスさまは彼らにこう言っているのです、「神の国の祝宴に招かれているのは、自分を『義人』と呼んでいるあなたがたではなく、あなたがたが『罪人』と呼んでいる人たちである」。神の国の祝宴にあずかる者、神との交わりを得てまことの生命の喜びに至る者は、このような自分に何の価値も資格も無い者だと言います。マタイのこの個所には、《『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい》というホセア6章6の言葉が引用されています(マタイ9章12〜13)。イエスさまは、神の国の門は罪人を赦し、罪人を招く神の愛、神の憐れみによって開かれるのだと告げているのです。
  ファリサイ派の人は、自分は正しいと思っていますから、イエスさまの招き、罪の赦しなど必要ない、自分の力で天国の門を開くことができると思っています。彼らは自分の正しさに固執するあまり、罪人をも赦して招く、このあまりに大きな神の憐れみを認めることができなかったのです。
  日本ではしばしば、「敬虔なクリスチャン」という言葉を耳にします。教会には品行方正で、優しくて、愛に満ちた人が来るものだと思っているのかもしれません。しかし、キリスト者であるとは、立派な行いができること以前に、自分が病んでおり、罪人の頭であることを自覚している人に他なりません。そのことをはっきりさせておかないと、キリスト者自身がこのイメージを演じようとしてしまうことさえ起こりかねません。その結果、いつの間にかキリスト者自身がファリサイ派のようになってしまい、「あの人は教会に相応しくない」、「この人はこれでもキリスト者か」、といったことを言い出しかねないのです。
  渡辺信夫牧師は「罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことだ」と言ったそうです。自分のことを考えて見れば、わたしたちもまた、他人がどう思おうが、少なくとも自分では、自分はイエスさま以外に受け入れてもらえない人間だということをよく知っているのではないでしょうか。わたしたちはどこまでも、ただイエスさまに招いていただいた罪人に過ぎません。そして、そのことを知るがゆえに、「キリストの教会に相応しくない人など一人もいない」と、いつでもはっきりと弁えている者たちなのです。
  イエスさまが、ユダヤ社会においてその人がどのように見られているかということをまったく無視して罪人や徴税人たちと食事をしたように、わたしたちもまた、その人の社会的な立場や、今までどのように生きてきたか、そのようなことは一切問わないし、問われません。それがキリストの教会です。その人がどのような人であっても、ただ神の御前に自らの罪を認めてひれ伏す、この礼拝へと招いていきます。あなたは神に招かれています、神に愛されています、と告げていきます。わたしたちは、このイエスさまの愛と憐れみと恵みを受けた証人として立っているのです。


inserted by FC2 system