2018年7月1日  聖霊降臨後第六主日  マルコによる福音書3章1〜12
「安息日に癒やす」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。》
  その日の礼拝では、人々はイエスさまが片手の萎えた人を癒やすかどうかに注目していました。安息日にイエスさまがこの人を癒やせば、安息日規定に違反したとして裁判にかけたいと思っていたのです。   当時の安息日規定によると、安息日には生死に関わるような緊急の場合以外は、医療行為を行ってはいけないことになっていました。片手が萎えた状態は生死に関わることではありませんから、この人は日が沈んで安息日が終わってから癒やされるべきでした。イエスさまは、そのような規定を承知の上で、この手の萎えた人に《真ん中に立ちなさい》と言い、人々の目の前でこの人を癒やしました。これは、安息日規定そのものに対しての挑戦であり、律法を守って神の御前にその正しさを主張するという信仰のあり方が、根本的に間違っていることを示すものでした。
  イエスさまは、律法の中で最も重要なものは何かと問われて、《第一の掟は、これである。『・・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』》(マルコ12章29〜31)と答えています。この答えは誰もが納得するものでした。数ある律法は、この「神を愛すること」と「隣人を愛すること」をまっとうするために定められたのです。この二つの愛に対立するのでは、神の御心に適ったあり方で律法を守ることにはなりません。イエスさまはここで、律法を否定しているのではありません。神も隣人も愛さず、それでいて、自分たちは安息日には何もしないのだから律法を守っている、自分たちは正しいと言い張る、その信仰のあり方を批判しているのです。
  神を愛し、隣人を愛する。この愛に生きるとき、わたしたちは本当に自由になります。神は、この自由に生きることができるようにわたしたちを招き、その自由の中に生きることができるようにと律法を与えてくださったのです。律法は、自分しか愛せないわたしたちの罪を明らかにし、悔い改めへと導き、神を愛し、隣人を愛する者へと歩み出させるために与えられたものです。
  イエスさまはそのことをはっきり示すために、人々にこう問いかけます。《安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか》。「安息日に律法で許されているのは」というのは、「神の御心にじゃなっているのは」というのと同じ意味でしょう。安息日であっても、善を行うこと、命を救うことが神の御心であることは明白です。にもかかわらず、《彼らは黙っていた》のです。そうだと答えれば、安息日に治療行為を禁じた律法を遵守するように求める自分たちの立場が無くなるからです。彼らは、いくつもの規定を作り、これを守ることによって自分を正しい者とする、このあり方を変えたくなかったのです。
  イエスさまがわたしたちに求めることは、変わることです。自分だけを愛し、神を愛さず、隣り人も愛せないわたしたちに、イエスさまが求めるのは、そのような自分を変えることです。それが悔い改めです。悔い改めというのは、何か悪いことをしてしまったと反省することではありません。もちろん、それも含まれますが、大切なことは、神を愛し、隣り人を愛する者に変えられることです。イエスさまは、あなたは本当に神を愛し、隣り人を愛する者となるために、変わらなければならないと言うのです。
  このとき、人々はイエスさまの問いに対して黙るというあり方で、イエスさまの招きを拒否しました。その結果、彼らはイエスさまを十字架につけるというところに行き着かざるを得なかったのです。6節に《ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた》とある通り、自分の罪を認めず、自分の正しさをどこまでも握りしめる者は、結局はイエスさまを殺すところにまで行ってしまうのです。
  神を愛し、神に従う。人を愛し、人に仕える。そのありさまを明確に示すのがイエスさまの十字架です。イエスさまは、わたしたちの一切の罪を己が身に負って、わたしたちに代わって神の裁きを受けました。イエスさまは、「わたしに従いなさい」とわたしたちを招いています。わたしたちがこの招きに応えないのなら、わたしたちはこの時の人々と同じように、黙るというあり方でイエスさまの招きを拒否するしかありません。5節《そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった》。イエスさまは、少しも変わろうとしない人々を悲しんだのです。神の御心は、神の独り子イエスさまの招きに応えて、イエスさまに従っていくことです。
  イエスさまによって癒やされたこの人は喜んだことでしょう。は、反対に、イエスさまの問いに黙った人々は、苦々しく思ったことでしょう。そして、この奇跡は、ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々にイエスさまを殺す決意をさせることになってしまったのです。イエスさまはそのようになることを承知の上で、この人を癒やしました。ということは、この人の萎えてしまっていた片手の癒やしを、イエスさまは御自分の十字架の死と引き替えに与えたということになるのではないでしょうか。このとき、この人はイエスさまが自分の萎えた片手を癒やしてくれた、ありがたい、そう思っていただけだと思います。しかし、この癒やしは、イエスさまに十字架の死を求めることになったのです。イエスさまはここで、御自分の命を捨てて、この人の萎えた片手を癒やしたのです。隣人を愛するとはこういうことなのだと、イエスさまはその身をもって示したのです。イエスさまは安息日に人を癒やし、ファリサイ派の人々はイエスさまを殺そうと図ります。イエスさまは、「いったいどちらが律法にかなっているのか」と問うのです。

  《7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。》
  イエスさまは、自分を殺そうとする人たちから身を隠すようにして町から出て、ガリラヤ湖のほとりに退きます。すると、イエスさまの一行を追うようにして、おびただしい群衆がついて来ました。ユダヤ人だけでなく、周辺の異教の地からも大勢やって来たのです。これは、イエスさまの福音が全世界に広がっていくことを暗示していると読んで良いでしょう。
  大勢の人々がイエスさまの行なった数々の癒やしの奇跡を聞いて集まる中で、「汚れた霊ども」つまり汚れた霊に憑かれた人がイエスさまの前にひれ伏して、《あなたは神の子だ》と叫びました。イエスさまは、《言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた》。自分の癒やしや悪霊追放の伝道が、人々に誤った印象を与えることを警戒したのです。イエスさまが「神の子」であることのほんとうの意味は、十字架と復活の後で初めて証しされるのです。《そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた》。イエスさまはそんな群衆に対して、距離を置かざるを得ませんでした。
  しかし、イエスさまは彼らを見捨てたのではありません。イエスさまはわたしたちの人生のすべての問題、課題を必ず解決してくださいます。かといって、病気を治してほしい、仕事が欲しい、受験が上手くいくように、それだけを求めるのは、イエスさまの伝道の意図とはズレがあります。神は癒やしや奇跡をおできになります。それでも、いつも、わたしたちが求め願っている形で問題を解決してくれるとは限りません。むしろ、神はわたしたちが求め願っているあり方とはまったく違う仕方で道を開き、解決してくださるようです。
  祈りへの答えの表われ方はどうであれ、わたしたちの弱さを知るイエスさまは、いまもわたしたちと共にいてくださいます。ですから、わたしたちはたとえ死の陰の谷を行くときも独りではありません。今週も、イエスさまの愛と助けに信頼をおいて、イエスさまと共に歩んでいきましょう。


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