2018年7月8日  聖霊降臨後第七主日  マルコによる福音書3章20〜30
「イエスとベルゼブル」
  説教者:高野 公雄 師

  《20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。》
  イエスさまが家に帰って来ると、群衆がすぐに集まって来ました。病気を癒してもらいたい、悪霊を追い出してもらいたいと願ったからです。悪霊追放や病気癒しは、パレスチナおよびヘレニズム世界で広く行なわれていました。イエスさま以外にも、いろいろな仕方で病気癒しや悪霊追放を行なう人たちがいました。中には、魔術師やまじない師もいたと思われます(使徒8章9)。また、マタイ12章27には《わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか》とあって、ファリサイ派の中にも、「悪霊追放」の祈りや追い出しをする人たちがいたことが分かります。ユダヤ教でも悪霊追放が行なわれていたのです。
  しかし、モーセ律法はまじないや魔術による治療を禁じていました(歴代誌下33章6)。ですから、ある人が悪霊追放や病気癒しを行なうと、それが聖書の神から出たものか、それとも魔術やまじないによる悪魔から出たものかを調べて、魔術やまじないによる行為は処罰されました。ファリサイ派の人たちの悪霊追放は、律法の定める儀式に従う伝統的な方法によるものであり、イエスさまのやり方はそれとはずいぶん異なる、言葉その他のごく簡単な方法でした。これを見て人々は《この人はダビデの子ではないだろうか》(マタイ12章23)と称賛し、敵対する者たちは、あっけにとられて、《悪霊(ども)の頭》でなければとてもこんなことはできないと判断したのでしょう。
  イエスさまは、いまここで行なわれているのが、単なる悪霊追放の業だけでは「ない」ことをはっきりと宣言しています。イエスさまを通じて顕わされている悪霊追放は、「神の霊」の直接の介入によって行なわれているのであって、このことは、イエスさまを通じて初めて可能なことであり、すでに《神の国はあなたたちのところに来ている》(マタイ12章28)ことを示すものです。
  そのように、《食事をする暇もないほど》に忙しく神の救いの御業に励むイエスさまに対して、反対する二つのグループの人々が現れます。第一のグループは、《身内の人たち》です。イエスさまが癒やしたり、神の国の到来を告げたりする様子を見て、《あの男は気が変になっている》と言う人があって、身内の者としては放っておくことができずに取り押さえに来たというのです。自分たちもトラブルに巻き込まれることを恐れたからでしょうか、あるいは死刑も予想される制裁からイエスさまを救うためだったでしょうか。わたしたちも身内からイエスさまのような者が出たら、家に連れ戻して、家から出させないようにするかもしれません。
  第二のグループは、《エルサレムから下って来た律法学者たち》です。この「エルサレムから下って来た律法学者たち」というのは、会堂で律法を教えたり、律法によって裁いたりする、ガリラヤ在住の身分の低い律法学者たちのことではなくて、イエスさまの言動を監視するために、エルサレムのユダヤ教の指導者たちからカリラヤへと遣わされた、より高位の律法学者たちのことを指します。
  律法学者たちからイエスさまに向けられた非難は二つあります。一つは、イエスさまが《ベルゼブルが取りつかれている》という非難です。ここで彼らは、イエスさまの言動だけではなく、イエスさまの霊性それ自体が、サタンと同一視される「ベルゼブルの霊性」だと見なしたのです。これは、イエスさまに向けられたさまざまな非難の中で、最も悪質で、根源的な敵意を意味します。イエスさまに対するもう一つの非難は、イエスさまの悪霊追放は、《悪霊(ども)の頭》の霊力によっているというものです。ここで言う「悪霊」とは、病気や精神的な病を起こす「悪い霊」の意味ではなく、神の聖霊に敵対する、正真正銘の「悪霊」であり、しかもその頭である「悪魔」のことです。エルサレムの指導層から来た律法学者たちは、イエスさまの霊性を「ベルゼブルの霊」だと断定したということです。イエスさまの親族が最も恐れていた、まさにそのことが起こったのです。
  ここでイエスさまは二つのたとえを用いて論じます。まず国と家のたとえです。《どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう》。ここで家をたとえに出しているのは、ベルゼブルというのは、もとは「家(神殿)の主人」という意味の言葉だったことを活用して反論しているのです。あなたがたはわたしをベルゼブル、家の主人だと言うが、その主人が悪霊を追い出したら、内輪もめではないか。悪霊たちの世界にも、それなりに秩序があるだろう。内輪もめをしていてはその家は成り立たないではないか、と律法学者たちの判断の誤りと矛盾を突きます。
  それに続けて、次に略奪者のたとえで、《また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ》と言います。ここでイエスさまは、悪霊どもの家の主人であるベルゼブルを縛り上げて、ベルゼブルの手下である悪霊どもを追い出しているのだ、とご自分の中に来ている事態がどのようなものであるのかを示唆しています。
  そして最後に、イエスさまはこう言います。《はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》。ここで「人の子ら」と複数形で言われているのは、わたしたち人間一般を表します。新約聖書では単数形の「人の子」は、イエスさまが自分自身を指す言い方であると同時に、終末に再臨する「人の子」として、イエス・キリストを表す称号としても用いられています。
  わたしたちが犯す(人に対する)罪も、どんな(直接神に向かって犯す)冒涜も、すべて赦されます。これは聖書が一貫して告げている罪の赦しのことです。しかし、《聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》とは、どういうことでしょうか。赦される罪と赦されない罪があるのでしょうか。また、赦されない罪とはいったい何なのでしょうか。
  アウグスティヌスは、ここで語られている罪を、聖霊の働きに逆らって、最後まで悔い改めることを拒み続けるかたくなな意思であると考えました。これがいわゆる《死に至る罪》(第一ヨハネ5章16)です。「聖霊に対する冒涜」は、この場合、ある特定の行為を指すよりもむしろ状態を表しているわけですが、彼のこの解釈が、一つの標準とされています。
  じつに、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを我が主人として受け入れ、告白するということは、聖霊なる神の御業によるのです。信仰は自分で獲得するものではなくて、神から与えられるものです。聖霊を冒?するとは、聖霊なる神の御業を受け入れない、イエスさまへの信仰を受け入れないということです。そうであれば、どうして救われることがあるかということです。
  わたしたちの救い、わたしたちの罪の赦しは、わたしたちがどんな良いことをしたかということによるのではありません。イエスさまの十字架による身代わりの犠牲によって、イエスさまがわたしのために、わたしに代わって一切の裁きをすでに引き受けてくださった。わたしたちは、この信仰によって救いにたどり着くのです。つまり、このイエスさまの言葉は、「イエスさまを信じるならば一切の罪は赦され、救われる。しかし、イエスさまの救いのみわざを受け入れないのであれば、その罪は残る。罪の責めを負わなければならないことになる」と言っていることになります。
  わたしたちは聖霊なる神によって信仰を与えられ、罪を赦され、救われました。しかし、それは、愛を注がれて、いよいよ神の御業に仕え、隣り人に仕えるためです。自分は罪を赦された、ああ良かったと安らぐだけでは済みません。先立って歩まれるイエスさまの愛の業に仕える者として歩み出していく。そのような者になるようにと、わたしたちは召し出されているのです。


inserted by FC2 system