2018年7月15日  聖霊降臨後第八主日  マルコによる福音書4章26〜34
「たとえを用いて語る」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうの個所は、「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」という二つのたとえです。神の国がどのようなものであるかを示すたとえです。イエスさまが語った福音というのは、神の国(神の恵みのご支配)の到来を告げるものですが、それは、わたしたちのうちで少しずつ実現されています。それがどのようなものであるかが、たとえにおいて示されているのです。

  《26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」》
  イエスさまは、先ず、神の国を種が芽を出して育つ姿にたとえます。わたしたちは種を蒔きますが、その種が、「どうして」育つかは分かりません。わたしたちは植物を育てるときに、その神秘と触れ合うことになります。蒔いた人が極力良く育つように努力することはあるとしても、その種を芽生えさせ、成長させるのは蒔いた人ではありません。《土はひとりでに実を結ばせる》のです。《ひとりでに》育つので、それが「どうして」育つのか、わたしたちには分からないのです。神の国は、たしかに、わたしたちのただ中に実現されることです。けれども、神のご支配が、どうしてそうなるのかは、分からないのです。神の国、神のご支配とは、人間の業、人間の努力でもたらされるものではないからです。それはわたしたちが知りえないうちに成長していくのです。
  神の業が、《ひとりでに》進むのに対して、わたしたちについて記されているのは《夜昼、寝起きしている》ということだけです。種を蒔いたなら、その人は、当然必死で世話をするでしょう。でも、やはり、神の国は「ひとりでに」成長しているのであって、わたしたちが「どうしてそうなるか」を知らないままに、《まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる》のです。

  《30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」》
  イエスさまは続けて、神の国を「からし種」にたとえます。イスラエルで「からし」というのは一般に「クロガラシ」のことだと言われています。この種は直径1ミリほどですが、背丈は2メートル近くなります。どんな種よりも小さい、このからし種が、《成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る》とは、大仰ですが、イエスさまはそう言って、このたとえを、きょうの旧約聖書に結びつけているのです。
  エゼキエル17章では、将来、現されるメシアの到来が示されています。主なる神が、《高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って・・・イスラエルの高い山に移し植える》。そうすると、《あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる》というのです。鳥が巣を作り、そこに住むというのは、相当丈夫な枝であることになります。大きな風が吹き付けても、巣が落ちることなく、台風や雨風をしのげるようなうっそうとした葉を茂らせていることでしょう。あらゆる鳥がそこに住めるというのは、神のご支配の包容力の大きさが示されています。
  しかし、マルコの「からし種」とエゼキエルの「レバノン杉」の間には、違いもあります。レバノン杉が、崇高性、力、枯れることのないみずみずしさの比喩として用いられているのに対して、「からし種」は、それ以上に小さいものが無いものの比喩として用いられています。このたとえで示されているのは、最も弱いものが力強く成長する姿です。神の国というのは、そのような、あるかないか分からない程の小ささ、弱さから始められるのです。
  この神の恵みのご支配は、イエスさまご自身において実現されます。イエスさまの歩みは、決して力強いものではありません。神の子でありながら人々から軽蔑され、弟子たちから見捨てられる中で十字架に赴く歩みでした。この十字架は、わたしたちがどうしてそうなるか分からないうちに、「ひとりでに」行われた歩みと言えるでしょう。イエスさまが十字架に赴かれたとき、その意味を知るものは誰もいませんでした。しかし、この十字架によってわたしたちの罪は贖われたのです。わたしたちから見れば弱いものにしか見えない歩みによって、わたしたちを罪から救ってくださっているのです。この十字架における救いの業にこそ、神の恵みのご支配が示されているのです。
  イエスさまの十字架と復活は、世において、決して力強く明確に示されているわけではありません。たしかに、イエスさまをキリストと信じて歩む人々はいます。しかし、わたしたちの日常生活において、イエスさまが示している神のご支配がいとも簡単に忘れ去られてしまうということも事実です。人間の支配、この世の現実や、わたしたちの罪に支配された日常生活において、神の救いのご支配は弱く小さいものでしかないということがあります。しかし、この弱く小さなところから神の国は始まっているのです。
  成長する種のたとえでは、神の支配を実現するのが神ご自身の業であることを知らされました。しかし、神の支配がひとりでに育つということは、神の国の成長がわたしたちと無関係に進められているということではありません。種を蒔いた人が、その植物が育ちやすい環境を整えることは、植物が育つために用いられます。それと同じように、わたしたちは、その神の支配の実現のために関わっています。神のご支配は、わたしたちのただ中に実現するものだからです。この世で現される神の国は、わたしたちが神を礼拝する集いにおいて実現されています。わたしたちがこの世でイエスさまを信じ、賛美と祈りを献げるとき、たしかに神のご支配は進められているのです。
  神の国の成長は、ごく小さな「からし種」から始められ、すぐには成果も現れず、わたしたちが見てただちに分かるような成果は生まれません。しかし、わたしたちのうちに、小さな祈りが、イエスさまに対する信頼と感謝が与えられています。そこから、神のご支配が始まっているのです。神が、そのような思いを育ててくださり、大きく成長させてくださるのです。

  《33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。》
  「御言葉を語られた」は、単に「話した」という意味ではなく、新約聖書において、「御言葉」という用語は、イエスさまが宣べ伝えた《神の福音》(1章14)という意味になります。その御言葉を「聞く力」とは、人間の理解力のことではありません。それは《聞く耳のある者は聞きなさい》(4章9、23)という招きの言葉における「聞く耳」を持っているということです。イエスさまのたとえをただの物語として素通りさせないで、それがいま自分に何を意味しているのかを真剣に受け止めなければなりません。
  このことは、イエスさまの「神の国」宣教の全体について言えます。イエスさまはガリラヤでの宣教において「神の国」のことを民衆に明白な言葉で語られましたが、その核心的な部分についてまだ隠されていることがありました。それはとくに「イエスさまは誰であるか」という、イエスさまの人格の秘密についてです。このことは、ペトロが《あなたは、メシアです》(8章31)と告白したときから教え始め、受難の地エルサレムに向かう旅の途上で弟子たちだけにひそかに打ち明けられた秘密です。この秘密についてのイエスさまの教えは、イエスさまの姿が山上で変容したときに天からの声でも保証されました。このイエスさまが《多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する》(8章31)人の子であるという秘密こそ、「神の国の奥義」です。これを認め、理解することなしには、イエスさまが語られる「神の国」の言葉は謎のままにとどまるのです。その弟子たちも復活の後のイエスさまから聖霊を受けるまでは、苦しみを受ける人の子の奥義を理解することができず、たとえの意味を自分で悟ることもできなかったのです。イエスさまに従う者に与えられる聖霊によって無条件の神の恵みを味わうことがなければ、教えの言葉も奇跡の業も、さらには十字架の死まで、イエスさまのすべてが謎のままになってしまいます。
  イエスさまが語られた《収穫の時》とは、イエスさまの十字架と復活の力がはっきりと示され、その恵みの中で、神を讃える礼拝が献げられる時です。そのとき、神のご支配は大きく育ったからし種の葉の陰に羽を休める鳥のように、そのご支配のうちに安らぐことができるほどのものに成長するのです。神の国はいま、わたしたちをも巻き込んで前進しています。わたしたち一人ひとりの日々の生活が、神の国の成長の中に置かれているのです。その歩みにおいて、イエスさまがわたしたちをも神の国の前進のために用いてくださる、その恵みをもまた体験させられていくのです。


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