2018年7月22日  聖霊降臨後第九主日  マルコによる福音書4章35〜41
「嵐を静める」
  説教者:高野 公雄 師

  《35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。》
  イエスさまは、ガリラヤ湖に舟を浮かべて群衆に向かって話していましたが、夕方になってそれが終わると、弟子たちに《向こう岸に渡ろう》と告げました。向こう岸というのは、5章1によると湖の東側の異邦人の地です。
  ガリラヤ湖の東西は対岸まで12kmありますから、ちょっと行こうという距離ではありません。ですから、漁師であった弟子たちは、夕方になって対岸まで舟を漕ぐというのは、あまり気が進まなかったのではないでしょうか。しかし、イエスさまが《向こう岸に渡ろう》と言うのですから、彼らは舟を漕ぎ出しました。《ほかの舟も一緒であった》とありますから、沖へ出たのはイエスさまを乗せした舟だけではなく、弟子たちは漁のために用いる小さな舟に分乗していたのでしょう。
  しばらくすると、《激しい突風が起こり》ました。《舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった》、とあります。もう日は暮れていたかもしれません。ガリラヤ湖は、いつもはとても穏やかなのですが、海抜―212mと低く、周囲が山に囲まれているため、夕方には気象状況の変化によって、不意に山から吹き下ろす突風が襲うことがよくあるそうです。激しい突風によって大きな波が起き、舟の中に水が入ってきます。弟子たちは必死に水を掻き出したことでしょう。
  ところが、イエスさまはと言うと、《しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた》のです。弟子たちは、眠っているイエスさまを起こして、こう言います。《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》。この言葉には、イエスさまに対しての非難めいた思いが表れていると思います。このとき弟子たちはイエスさまに対して、「あなたが向こう岸に渡ろうと言ったのではないですか。わたしたちがおぼれたら、先生、あなたのせいですよ。何とかしてください」、そんな思いだったのではないかと思います。
  このとき、イエスさまは眠っていました。たんに疲れていたからではありません。イエスさまは、天地を造られたただ一人の神のみ子であり、この嵐が自分に何もすることはできないし、父なる神がそれを許さないことが分かっていたのです。だから眠っていられたのです。
  しかし、弟子たちはそれが分かりません。ですから、恐れと不安のあまり、イエスさまを非難しさえするのです。イエスさまは確かに一緒にはいるけれど、ちっとも頼りにならない。これが、このときの弟子たちの思いだったでしょう。この弟子たちの姿は、わたしたちの姿と重なります。わたしたちの目から見ると、イエスさまがわたしたちの現状に対して、まったく関心を持っていないように見える時があります。困難な状況に陥ると、つい、神さまは何もしてくれない、沈黙しているのだ、眠っているのだと思ってしまいます。そういうわたしたちの側の気持ちが、イエスさまが嵐の舟の上で眠っているという姿で描かれているのではないでしょうか。
  どんなに素晴らしい聖書の話しを聞いても、神の国、神が愛をもってわたしたちを支配してくださる、共にいてくださるということを聞いても、それは、現実の問題には何の力にもならない。この出来事は、わたしたちにはそういう感覚があることを表しています。実際、こんな場合に慌てふためかない人がいるでしょうか。《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》というセリフは、わたしたちの日常生活の中でどれほど口にされていることでしょう。《黙れ。静まれ》。本当はこの言葉は、弟子たちに向けられていてもおかしくはなかったと思います。目の前の出来事に心奪われて大騒ぎしている弟子たちを、イエスさまが叱ったとしも何の不思議でもありません。しかし、イエスさまはそうはしませんでした。今の問題の原因となっている風と湖を治めたのです。そうして弟子たちを安心させたあとで、弟子たちの方を向いて言います。《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》。
  イエスさまは何もしてくれない、ただ居るだけ、そう弟子たちには思えたのです。しかし、イエスさまが共にいるということは、そんなものではありません。一見、イエスさまは何もしていないように見えても、決定的に守ってくださっているのです。もしもイエスさまが風を叱り、湖に《黙れ。静まれ》と言って、嵐を静めなかったら、眠ったままでいたら、舟は沈んだでしょうか。いいえ、イエスさまが共にいるとは、沈んでしまいそうに見えても、沈まないのです。しかしこのとき、弟子たちはそうは思えませんでした。だから、イエスさまからこう言われたのです。《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》。弟子たちは怖がりました。それは信じていないからだ、とイエスさまは言うのです。
  しかし、《なぜ怖がるのか》と言われるということは、本当は怖がる必要などなかったのだということです。風がやんで凪ぎになったから怖がる必要がないのではなくて、まだ突風が吹いているときでも、波をかぶって舟が沈みそうになっているそのときでも、本当は怖がる必要などなかったということです。なぜなら、そもそも《向こう岸に渡ろう》というイエスさまの言葉に従って舟を出したのなら、嵐が吹こうが、波が押し寄せようが、イエスさまと共に向こう岸に着くのです。神が実現するのです。弟子たちにとって本当に必要なことは、たんに嵐から救い出してもらうことではありませんでした。そうではなくて、嵐の中にあってもなおイエスさまを信じる者となることだったのです。
  しかしそんな信仰をわたしたちは持てるでしょうか。わたしたちの信仰はいつでも「苦しい時の神頼み」なのではないでしょうか。そして苦しい時の神頼みの信仰というのは、いつでも情けないことに、きわめて自分中心の信仰です。《わたしたちがおぼれてもかまわないのですか》という弟子たちの信仰、ずいぶん身勝手なあつかましい自分中心の、ご利益的な信仰なのです。
  しかし、イエスさまは、そういうわたしたちのきわめて自分中心、ご利益的な信仰をただ軽蔑し、それを退けたのではなく、そういうわたしたちの不当な、しかし切実な祈り願いに応えてくださって、《黙れ。静まれ》と、風と海を叱って、嵐を静めてくださったのです。そのようにして、嵐を静めてくださったのち、イエスさまは弟子たちに対して《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》、と叱ったのです。
  この記事は、《いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか》という、嵐を静めたイエスさまに対する驚きの言葉で終っています。つまり、聖書がわたしたちに教えている信仰は、この嵐を静めるイエスさまに対する信仰を持ちなさいということです。それは、イエスさまが嵐の中で、父なる神を信頼して、動揺しないで、落ちついて、眠ることができるような、そんな立派な信仰ではありません。そうではなくて、わたしたちの「苦しい時の神頼み」という信仰、そういうご利益的な自分中心の信仰に、ある時には応えてくださるイエスさま、そうしてそういうわたしたちのあやふやな信仰を叱りとばし、《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》といって、わたしたちの信仰を叱ってくださるイエスさまを信じる信仰を持ちなさいということなのです。
  どんな嵐が来ても、動揺しない信仰を持てたら、どんなにいいだろうと思います。しかし、そういう信仰はイエスさましか持てない信仰で、わたしたちにはそんな信仰は持てないし、持つ必要もないのではないでしょうか。わたしたちが持つことが許されている信仰は、この風と海を叱りとばして、《黙れ。静まれ》といって、嵐を静めてくれるイエス・キリストに対する信仰なのであって、その信仰を持ち続けなさいと、聖書はわたしたちに教えているのではないでしょうか。
  弟子たちはこの時にはまだ、イエスさまがどういうお方なのか分かっていませんでした。イエスさまは、わたしたちのために、わたしたちに代わって十字架に掛かってくださった。ご自分の命と引き替えに、わたしたちを救ってくださった。さらに、イエスさまは三日目に復活されました。死さえもイエスさまを滅ぼすことができなかった。天地を造ったただ一人の神の独り子だからです。このイエス・キリストが共にいてくださる。だったら、いったい何がわたしたちを滅ぼすことができるというのでしょうか。使徒パウロが、《神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか》(ローマ8章31)、と言っているとおりです。イエス・キリストとは誰なのか、そのことがはっきり分かるならば、その方がわたしたちと共にいてくださるということが分かるならば、わたしたちは何も恐れるものはないのです。


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