2018年8月5日  聖霊降臨後第一一主日  マルコによる福音書6章1〜6a
「イエス 郷里で拒否される」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた。》

  きょうの個所は、《イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った》と始まっています。この「故郷」というのは、ナザレの村を指しています。イエスさまはベツレヘムで生まれましたが(ルカ2章6)、父ヨセフはナザレの村の大工でしたから、ナザレに戻り、イエスさまはそこで成長したと考えられます。
  イエスさまは郷里で、父親の後を継いで大工の仕事をしていたようです。3節にある家族の名前の中に父ヨセフの名前が出てこないのは、ヨセフは早くに亡くなったということでしょう。イエスさまは父親に代わって、兄弟たちの面倒をみて、大工の仕事をしながら、母親を助けて生計を立てていたのではないかと思われます。
  イエスさまは、30歳のころ(ルカ3章23)、ナザレの村を出て、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)と宣べ伝え始めたのでした。イエスさまが宣教していたとき、イエスさまの身内の人々は、イエスさまが気が変になったと思って、イエスさまを取り押さえて郷里に連れ戻そうとしたということもありました(3章21)。その時、イエスさまは、《「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。・・・神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ》(3章33〜34)と言って、身内とか郷里という関係を切ったのです。そのイエスさまが、いまご自分の故郷に帰って来ました。ナザレに住む人々にも神の国の福音を伝えるためでしょう。
  安息日になって、イエスさまはナザレの村の会堂で教えました。カファルナウムの町でもそうしたとありますから(1章21)、安息日に会堂で教えるのは、イエスさまのいつものやり方だったようです。このとき、人々はイエスさまの話を聞いてどう思ったでしょうか。《この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か》と言って、人々は、イエスさまの権威ある者としての教えに驚いたし、奇跡にも感嘆しました。その反面、《この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか》と、ナザレの人たちは驚きとも非難ともつかない言い方もしています。イエスさまをめぐって、一方では信仰と称賛と受け入れ、他方では不信仰と非難と拒否、この二つが入り交じっているのが分かります。どうしてこのようなことになるのでしょうか。
  それは、イエスさまが、ナザレを出た時と、み霊に満ちてナザレへ戻ってきた時とでは、まったく違う人に見えたからです。イエスさまがご自分のことを「神から遣わされたメシア」として自覚したのは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、聖霊が鳩のように降った時からです。イエスさまの外側は大工の息子でも、内側には神のみ霊が宿っているのです。
  ところが、ナザレの人たちには、幼い頃から見知っていたヨセフの家の息子が、どうして突然このように霊的な知恵と力が与えられたのだろうと、不思議でしかたありません。彼らには、外側の大工の息子は見えているのですが、内側のみ霊の臨在が見えてこないのです。どうしてでしょうか。ひとつには、彼らはイエスさまを「知っている」と思い込んでいるからです。彼らは、イエスさまとその兄弟が、母マリアと同様に信心深いことも知っています。イエスさまが頭のいい子で、気だてもいい人だと知っています。それだけでなく、彼らナザレの人たちは、安息日ごとに会堂で聖書の教えを受けたり、礼拝をしてきましたから、神のみ言葉も神の不思議な知恵も何もかも「知っている」と思い込んでいるのです。「慣れる」というのは怖いことで、驚くべきことが驚きでなくなります。神の存在も、長い間の宗教制度のおかげで、すっかりなじんでいますから、少しも不思議に思わないのです。
  こういうところへ、突然、今まで知っていたはずのイエスさまが現れて、そのイエスさまを通じて、驚くべき神のみ霊の働きが現れると、自分の今までの世界が壊れていくようで、怖くなる、目の前の大きな変化についていけなくなるのです。パウロが洗礼を受けたときに、目から鱗(うろこ)が落ちたとありますが(使徒言行録9章18)、これが神のみ霊の働きを見えなくしている「思いこみ」という鱗です。とくに信仰の世界では、この思いこみが強くなります。こうなると、「目で見ても観ず、耳で聞いても聴かない」(マタイ13章13)という事態になるのです。
  この福音書の著者マルコは、この出来事を、単なる一つの事件としてではなく、イエスさまのガリラヤ伝道全体を代表する出来事だと解釈しています。イエスが故郷、ひいては故国では受け入れられなかったことを示すと共に、エルサレムでの受難への予兆だと理解しているようです。イエスさまは、ご自分の故郷すなわちユダヤの人たちから退けられた。その結果、イエスさまの十字架と復活の出来事が起こった。これによって、イエスさまの福音は、ユダヤ人に替わって異邦の諸民族に伝えられるようになったと説明されます。これは、「歴史的に」見れば正しい理解です。
  しかし、これはナザレの出来事の歴史的な側面の解釈であって、ここで起った「霊的な」出来事の本質ではありません。つまずきの本質は、「人間イエス」と「イエスさまの霊性」との間の溝に潜んでいます。わたしたちは注意しないと、この溝に落ち込んでしまうのです。この問題はユダヤ人の問題だなどと思っていたら、大変な間違いです。ナザレの人たちがイエスさまにつまずいたのは、人間としてのイエスさまと神の御子としてのイエスさまの霊性との間に横たわる落差によります。この落差こそが、ナザレの出来事の本質的な意味なのです。このように見ることによって、受難と復活の意味がいっそうはっきりと見えてくると思います。
  郷里の人々の不信に対して、イエスさまは、《預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである》と言って、彼らの不信が人間的側面だけしか見えないことから来ることを指摘しています。そして、このことを聖書は、《このように、人々はイエスにつまずいた》と記しています。この「つまずき」は、自分が知っていると思っていること、自分の感覚や知性で知ることができること、それがすべてだと思っている人に必ず起きる「つまずき」だと言えます。ですから、ナザレの人たちもわたしたちも、イエスさまに対してまったく同じ人間であるという視点から、この出来事を観ていかなければなりません。《わたしにつまずかない人は幸いである》(マタイ11章6)。このみ言葉は、イエスさまの周りにいた人たちと全く同じように、今のわたしたちにも向けられているのです。
  きょうの個所は続けて、イエスさまがナザレでは、《そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった》と記しています。このことばは「病気のいやし」がイエスさまへの信仰(信頼)によるものであることを暗示してます。イエスさまは、奇跡によって人々の不信仰の壁を突き崩そうとはされなかったということでしょう。奇跡は、イエスさまに対する人格的な信頼のないところでは、ただご利益信仰に堕落してしまうことをイエスさまはよくご存知だったのです。
  先週読んだ5章において、イエスさまは、イエスさまの着物に触れることができれば、長い間出血が止まらないという自分の病気が癒されるのではないかと期待した女性を癒されました。この女性にどれほどの信仰があったかと言えば、信仰という名にふさわしいものは何も無かったかもしれません。しかし、イエスさまはそれを受け止められたのです。一方、このナザレの人々には、そのような期待さえ無かったようです。そのようなところでは、奇跡を行っても意味が無いということなのでしょう。
  「つまづき」の本質が、人間イエスとイエスさまの霊性との落差にあるならば、ふつうなら誰でも、ナザレの人々のように、イエスさまにつまずくでしょう。いま、わたしたちにイエスさまを信じる信仰が与えられているのは、そこに神の働きかけがあったということです。その結果、このような信じがたいイエスさまを信じる信仰が与えられていることを驚きをもって感謝しましょう。その感謝の心が、喜びをもって信仰生活を送る力の源泉でもあります。


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