2018年8月19日  聖霊降臨後第一三主日  マルコによる福音書6章30〜44
「五千人の食事」
  説教者:高野 公雄 師

  《30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》

  イエスさまに遣わされた十二人の弟子たちが戻って来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告しました。弟子たちは二人ずつ組にして遣わされたのですから、六組の伝道報告がされたわけです。それぞれの組は別々の所に遣わされて、違った人々と違った出来事に出会いました。けれども、まったく違った経験をしながら、まったく同じことを報告したことでしょう。つまり、神が生きて働いてくださり、自分たちを用いて救いの御業を遂行されたことが報告されたはずです。もちろん、伝道に大きな手応えを感じた者もいれば、自分の無力さに打ちのめされた者もいたでしょう。イエスさまから遣わされた者が経験することは、いつでもその両面を含んでいます。
  イエスさまへの伝道報告は、必ず祈りへとつながります。イエスさまは弟子たちの伝道報告を聞くと、《さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい》、と言いました。伝道してきた弟子たちにとって今必要なことは、休むことであり、祈ることでした。主なる神との交わりを持つ中で本当の休息を取るように言われたのです。   さて、イエスさまと弟子たちは、祈って休むために舟に乗って人里離れた所へ行ったのですが、人々がそれに気付いて、イエスさまたちより先回りをしました。大勢の人たちがイエスさまたちより先に着いていたのです。残念ながら、イエスさまも弟子たちも、祈って休むということを諦めなければなりませんでした。《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた》、とあります。羊とは本来、羊飼いに養われてこそ生きられる動物です。自分では道を見出すことも、食物を探すことも、危険から身を守ることもできません。羊は羊飼いを失ったら荒野をさ迷い、体中に傷を受け、飢えと渇きで死んでしまうか、野獣の餌食となってしまいます。イエスさまは、自分のもとに救いを求めて来た群衆が疲れ果てて意気消沈している姿を見て、断腸の思いに駆られたのです。《深く憐れむ》という原語は、「内臓」を意味することばからできていて、内臓が引きちぎれるような痛みを覚えながら相手を憐れみ、愛し、何とかしようとする強い思いを指している言葉です。イエスさまは御自分の命を捨てて、飼い主のいない羊を救い出し、この群れのまことの飼い主となってくださるのです。

  《35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。42 すべての人が食べて満腹した。43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。44 パンを食べた人は男が五千人であった。》

  弟子たちは、イエスさまが深く憐れんで教えていた大勢の群衆を見て、イエスさまのそばに来て、こう言います。《ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう》。弟子たちは、休みが必要なほどに疲れていたのです。群衆の世話をする余裕はありません。ところが、イエスさまはその弟子たちに、こう命じたのです。《あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい》。原文は「あなたがたが」を強調しています。しかし、それは、「あなたがたの力で」ということではありません。「あなたがたの手を通して」ということのはずです。これは、人々を養うのがご自分の使命であることを自覚すると同時に、弟子たちにもその覚悟をさせるために言われたものでしょう。
  弟子たちはこのイエスさまの言葉に対して、《わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか》、と問い返します。弟子たちは、イエスさまが自分たちに、五千人分の食べ物を買って来させようとしていると考えたのです。弟子たちは、本当にイエスさまに身を委ねて仕えるよりも、自分自身の考えや判断を優先させ、自分の常識でイエスさまが為そうとしていることを先走って判断しました。イエスさまに従う歩みをしていながら、《心が鈍くなっていた》(6章52)ので、イエスさまの働きに自らを委ねることができずに、イエスさまの思いと全く異なる思いを抱くのです。わたしたちが何かをするのではありません。イエスさまご自身が、わたしたちを用いて、ご自身の民を豊かに養ってくださるのです。
  イエスさまはここで、《パンは幾つあるのか。見て来なさい》、と言います。結果は、《五つのパンと二匹の魚》でした。これは、当時のお弁当です。魚は、パンとともに食べるために、干して味付けした保存用の魚のことです。イエスさまは、群衆を組に分けて座らせるよう、弟子たちに命じました。50人、100人といった具合に、人々は青草の上に座ります。詩編23編が思い起こされます。《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる》。飼い主のいない羊のようだった群衆が、青草の上に群れとなって座り、休んでいます。まことの羊飼いであるイエスさまによって、いま食事を与えられようとしているのです。宴会で人々が悦び楽しむ雰囲気を思わせます。
  ここで理解も説明もできないことが起こります。わずか五つのパンと二匹の魚を何千人の人々が食べて、《すべての人が食べて満腹した》のです。それがどのようにして起こったのかは記されていません。そこで、いろいろと合理的な説明が提案されていますが、そのような試みは無意味、無益です。この出来事を通して、わたしたちが示されるのは、わたしたちが求める以前に、わたしたちが理解するかしないかに関わりなく、人間の思いを超えた所で、神が働いておられるということです。要するに、イエスさまを通して「神が働いた」ということです。「神が働いた」ことこそが「奇跡」(力ある業)の本当の意味です。「神が働いた」とは、人間の意思や思惑で生じた出来事ではないということです。ですから、逆に見れば、一見、自然で合理的で、人間が行った結果だと思われるようでありながら、じつは神が働いていた「奇跡」もあるのです。
  この五千人の食事は、十字架の出来事と同じ、イエスさまの憐れみの表れです。わたしたちは、このイエスさまの憐れみが目に見える不思議な出来事として現れた、その一つ一つの出来事に囲まれるようにして生かされているのです。わたしたちの目が開かれていないために、それに気付かないだけです。信仰が与えられるということは、そのことに一つまた一つと目が開かれていくということなのでしょう。
  イエスさまはこの時、《五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡し》ました。この言葉は、イエスさまが最後の晩餐において、聖餐を制定された時の言葉、《イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え》(14章22)とほとんど同じです。つまり、男だけで五千人もの人々が五つのパンと二匹の魚で養われたというこの驚くべき出来事は、わたしたちの守っている聖餐へとつながっている出来事なのです。イエスさまは、飼い主のいない羊のように歩んでいたわたしたちを見て、内臓がちぎれる痛みを覚えて御自身の羊としてくださり、養ってくださり、生かしてくださり、まことの平安へと導いてくださいます。その憐れみの食事が、この五千人の食事であり、最後の晩餐であり、わたしたちがあずかる聖餐なのです。ですから、わたしたちは聖餐にあずかるたびに、イエスさまの憐れみの御手の中、養いの中に生かされていることを覚えるのです。


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