2018年8月26日  聖霊降臨後第一四主日  マルコによる福音書6章45〜52
「イエス 湖上を歩く」
  説教者:高野 公雄 師

  《45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。》

  《それからすぐ》というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養ったという奇跡が行われたすぐ後でということでしょう。イエスさまは、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させました。弟子たちに中断していた休息をできるだけ早く与えるため、そしてご自身が一人で祈るためでしょう。ここで、弟子たちは湖上へ、イエスさまは山上へと別れました。
  ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進みません。ガリラヤ湖は地形の構造上、陸の方から突風が吹きつけて来ることがありました。弟子たちが舟で向かっていたベトサイダは、ちょうどその突風が吹いて来る方角になります。弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われますが、夜が明ける頃になっても向こう岸に着くことができませんでした。ガリラヤ湖を舟で横断するのは6〜8時間程度ですから、10時間近くもかかるということは、よほど逆風に「苦しめられて」(原語の意味)いたのでしょう。
  マルコ4章35以下にも、同じような状況が記されていました。弟子たちとイエスさまを乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭いました。そのときは、イエスさまは風を叱り、湖に向かって《黙れ。静まれ》と命じると、嵐は静まりました。しかし、今回は弟子たちの乗った舟にイエスさまはいません。《舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた》。この弟子たちとイエスさまの隔たりは絶対的なものでした。しかし、《ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て》とあります。イエスさまは、祈りの中で弟子たちの状況を見たということでしょう。弟子たちにはイエスさまの姿は見えません。しかし、イエスさまは、いつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。この近さを、聖書は告げているのです。わたしたちもそうなのです。イエスさまのことは見えません。しかしそれは、イエスさまがわたしたちから遠いということを意味していません。イエスさまは、わたしたち一人一人を、その祈りの中で見ているのです。弟子たちが、イエスさまに祈っていただいていたように、わたしたちもまた、イエスさまに祈られ、見ていただいているのです。わたしたちの一足一足の歩みは、このイエスさまの祈りのまなざしの中にあります。
  イエスさまは、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありません。イエスさまは湖の上を歩いて、弟子たちのところに来たのです。これは、弟子の誰も考えてもいないことでした。わたしたちが、こうなったら良いのにと思うようには、なかなかなりません。しかし、イエスさまは、いつもわたしたちの思いを超えた仕方で、その御姿を現し、救いの御業を行います。この時もそうでした。イエスさまは、なんと湖の上を歩くという仕方で、弟子たちのところに来られたのです。
  しかしこのとき、弟子たちは湖上を歩くイエスさまを見て、幽霊だと思って、大声で叫びました。湖には、おぼれ死んだ人たちの亡霊や悪霊が住むと言われていたからです。暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。そして、イエスさまが弟子たちの《舟に乗り込むと、風は静まり》ました。弟子たちは非常に驚きました。そして聖書は《パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである》、と言うのです。
  パンの出来事は、イエスさまが無から全世界を造られた全能の神の独り子であることを示していました。しかし、弟子たちは、イエスさまが大変な力を持った方だとは思ったでしょうけれども、イエスさまが神のひとり子、まことの神であるという理解には至らなかったということです。
  じつは、この湖の上を歩いて来るイエスさまの出来事も、イエスさまがまことの神であることを示しているのです。それは二つのことから言えます。ひとつは、《湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた》という個所であり、ふたつには、イエスさまが弟子たちと話された《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》という個所です。
  どうして、イエスさまは湖の上を歩いて近づいてきたのに、《そばを通り過ぎようとされた》のでしょうか。それは、旧約において、神が自らの姿を現される時の現し方なのです。それは、《あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである》(出エジプト33章20)、とあるように、神は人間にその姿を現すとき、人間にまともにその顔は見せないで、そのそばを通り過ぎることによって神の存在を感じさせたのです。モーセが、「どうしてもあなたがわたしとともにイスラエルの民を導きのぼってください。その証拠としてあなたの姿を見させてください」と執拗に迫ったとき、とうとう神はそのモーセの願いを聞き入れて、《わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない》(出エジプト33章22〜23)と言いました。
  もうひとつの例ですが、預言者エリヤが、バアルの預言者と戦って、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げたとき、疲労困憊して洞穴に潜んでいると、《主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ。そのとき主が通り過ぎて行かれた》。その直後、激しい風、地震、火が起こったが、それらの中に《主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた》(列王上19章11〜13)。これが、神がエリヤにご自身を現された現れ方です。ここでも「通り過ぎる」という言葉は、たんに「通過する」という意味ではなくて、神の顕現を表しています。このように、イエスさまが弟子たちの前を通り過ぎようとしたことは、イエスさまがまことの神であることを示しているのです。
  そして、イエスさまはここで《わたしだ》、と言っていることも重要です。このギリシア語(原文は「わたしである」)はヘブライ語の神の名「ヤハウェ」の語源から出ていて、神が御自身のことを言うときの言い方なのです。モーセが燃える柴の中に現れた方にその名を尋ねたとき、神はモーセに、《わたしはある。わたしはあるという者だ》と言われ、また、《イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと》(出エジプト3章14)、と答えています。
  以上のようにユダヤ教の背景からすれば、水の上を歩いて来たイエスさまが弟子たちにご自分を示すときに語った言葉は、単純な「わたしだ」ではなくて、神がご自身を啓示される時の『わたしはある』という重大な言葉であることが分かります。つまり、イエスさまはここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない」、と言われているのです。天地を造られたまことの神であるイエスさまが、共にいてくださる。だから大丈夫なのです。ここにわたしたちの平安の源があるのです。
  ところで、弟子たちは湖の上で逆風にあおられて、身動きができなくなっていました。このようは荒波は、個々人の信仰の歩みにおいても、昔から舟にたとえられるキリスト教会の歩みにおいても、起ります。逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。必死に漕いでも、ちっとも前に進まない。もうダメだと匙を投げたくなる時があるでしょう。何度も嵐の夜を経験する日が来るでしょう。しかし、大丈夫なのです。神が、その全能の御力をもって、わたしたちを守り、支え、導いてくださるからです。舟は少しも前に進まず、逆風にさらされ続けていると思われるかもしれません。しかし、沈みません。父なる神の御前にあって、イエスさまがわたしたちのために執りなしの祈りをしてくださっているからです。このイエスさまの祈りの中に、わたしたちの一日一日はあるのです。だから、大丈夫なのです。わたしたちの抱えている問題や課題は、わたしたちの願ったような形ではなくても、必ず道が拓かれます。目には見えないけれども聖霊によって共にいてくださるイエスさまは、毎週の礼拝において、《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》と語りかけ、わたしたちを守り導いてくださっているのです。


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