2018年8月12日  聖霊降臨後第一二主日  マルコによる福音書6章6b〜13
「十二弟子を派遣する」
  説教者:高野 公雄 師

  《6b それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。》

  イエスさまは弟子たちを選ぶにあたって、《彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため》(3章14〜15)であると述べています。十二人の召命以来、彼らはイエスさまに付き従って、ガリラヤの町や村を巡回してきましたが、ついに彼らが派遣される時が来たのです。《遣わすことにされた》は、「遣わし始めた」(文語訳、新改訳)とも訳せる言葉であって、派遣は1回限りのことではなく、継続して行なわれたことが示唆されています。後に復活されたイエスさまは、弟子たちを全世界に福音を宣べ伝えるために遣わしますが、これは、その本番に向けて具体的な指示を与えての、言わば予行演習です。弟子たちが「神に信頼すること」を経験することを望んでいるのです。その意味では、ここに記されていることは、現在に至るまで、イエスさまに遣わされた者として生きるキリスト者のあり方を示していると言って良いと思います。
  まず、弟子たちは《二人ずつ組にして》遣わされた、とあります。使者が二人ずつ組にして派遣されるのは、すでにユダヤ教においても慣行になっていました。一つには、人気(ひとけ)のない危険な道を行くときの安全の面から、もう一つは、使信の信憑性を保証するためには二人以上の証人が必要であるという法的な面(申命記19章15)からです。洗礼者ヨハネも獄中からイエスさまに「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねたときに、二人の弟子を遣わしています(ルカ7章18)。
  それに、コヘレト4章9〜12が言うように、困ったり行き詰まったりしたときでも、二人ならば、励まし合って、支え合って、ことに当たることができるでしょう。一人というのは大変弱いのです。誘惑にも負けやすいですし、独りよがりにもなりやすいのです。その意味で、伝道者の交わり、同労者の交わりというのはとても大切なものだと思います。
  教会は、このイエスさまの愛と知恵に満ちた配慮を、大切なこととして受け止めてきました。復活されたイエスさまによって全世界に遣わされた弟子たちの様子が、使徒言行録に記されています。そこに、わたしたちは大伝道者であったパウロの伝道の歩みを見ることができます。彼は何度も伝道旅行をしていますが、彼はいつもバルナバ、シラス、テモテといった同労者と一緒だったのです。
  8〜9節には具体的な指示が記されています。《旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた》。ここには常識では考えられないことですが、パンも袋も金も持っていくなと記されています。「杖」は、盗賊や獣や蛇などから身を守るために欠かすことができません。また、履物は足にからみつく害虫を防ぐために必要です。下着は寒さをしのぐためにも必要でした。二枚重ね着するのは野宿する用意ですが、それは不要だという言葉が、イエスさまの言葉としてカギ括弧でくくられています。イエスさまは宿の心配もしてくださると言うのです。
  パンも袋も金も下着も二枚持たずに旅をするということは、生活の最も基本的なものでさえ、周囲の人々の世話にならなければならないということです。行った先の人に頼らなければ生きいくこともできません。旅人をもてなすことは、ユダヤに限らずオリエントの古くからの慣習でした。イエスさまは、そのような習慣を背景として語っているのです。神だけに頼るということは、具体的には神が用意してくださる人の世話になるということでもあるのです。
  ここで、イエスさまは、その日その時の神の導きに一切を委ねて、福音を伝えるために専心するように指示しているのです。わたしたちが現在の状況の中でこの派遣のさいの指示を読むとき、これらの指示を文字どおりに実行することはできないでしょう。けれども、「神の国」を告げ知らせる使命の緊迫性は身をもって受けとめていなければならないと思います。
  10節を見ると、《また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」》とあります。これは、弟子たちがその村で福音を宣べ伝えるとき、世話をしてくれる家を転々とするなということです。その意味は、伝道者が良い待遇を求めてうろうろするなということでしょう。短期間に急いで伝えるのですから、一所に留まっても宿を貸す人の負担が大きくなるおそれはなかったのです。
  そして、11節です。《しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい》。「足の裏の埃を払い落とす」という行為は、わたしはもうあなたとは関係ない、ということを示す行為です。福音が伝えられたにもかかわらずこれを退けることは、神の裁きを招くことで、しかもその責任は、伝えた側にではなく、これを拒んだ人たちの上に臨むことを警告するためと思われます。「彼らへの証しとして」とは、その意味です。口語訳は「抗議のしるしとして」としていますが、伝道者の義憤を意味していません。
  これは遣わされる弟子たちに対しての、イエスさまの慰めの言葉でもあります。イエスさまの福音を携えて弟子たちは村々町々に行くわけですが、すべての所で歓迎されるとは限りません。この直前のところで、イエスさまが故郷のナザレでは歓迎されなかったということが記されています。イエスさまでさえそうであれば、まして、弟子たちも、村人に受け入れてもらえず、冷たくあしらわれるということがあるでしょう。そうすると、自分のやり方がまずいのではないかとか、自分の努力が足りないのではないかと、つい自分を責めたくなってしまいます。イエスさまはそのことをあらかじめ知っていて、この言葉を語ったのだと思います。《あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら》、それはそこに住む人々の問題であって、あなたがたの責任ではないのだということです。
  一所懸命に人々に神の言葉を語っても届かないことがあります。しかし、イエスさまでも受け入れられないことがありました。イエスさまは失敗をしても、次々に町を訪ねては伝道したのでした。そういうイエスさまの姿を弟子たちは思い起こしたに違いありません。そして、多くの弟子たちは慰められて来たのです。
  さて、イエスさまは弟子たちを遣わすに当たって、7節bで《汚れた霊に対する権能を授け》られました。「遣わす」は、イエスさまの代理としてその権威を帯びて赴くことですから、イエスさまの霊能をも分かち与えられることです。「汚れた霊に対する権能」とは、主なる神に敵対する力、神の国、神の恵みの支配を阻止する罪の力に打ち勝つ力のことです。イエスさまはそれを弟子たちに授け、その他のものは持つなと言われたのです。
  教会はイエス・キリストの権能を行使するために建てられています。これが与えられているから、教会は教会であり続けているのです。説教、祈祷、洗礼、聖餐、あるいは戒規といったものは、この権能を行使する場面です。この礼拝の場が、汚れた霊を追い出す場なのです。わたしたちは、さまざまな心の傷を持っていますし、さまざまな具体的な課題を持っています。しかし、わたしたちはこの礼拝に集うたびに、神がわたしを愛してくださっていることを、必ずわたしを救いの完成へと導いてくださることを、心に刻むのです。そのことによって、わたしたちは一切の悪しき霊の誘惑から守られているのです。この礼拝において神は働いてくださり、生きることの意味を教え、生きる力と勇気と希望を与えてくださるのです。このイエス・キリストの権能が最も明らかな形で行使されるのが、洗礼という出来事です。
  悪霊を追い出す権能は、もちろんこの教会にも授けられています。このことをわたしたちはしっかり受けとめなければなりません。世には汚れた霊どもが跋扈(ばっこ)しています。そして、汚れた霊の囚われ人になっている人が、おびただしくいるのです。この人々を汚れた霊どもから解放し、神のもとに取り戻すために、イエス・キリストのものとするために、この教会は立っているのですし、わたしたちは遣わされているのです。生きる力と勇気を失いかけている人々に、イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのです。聖霊なる神の御業の道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられるように、共に祈りましょう。


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