2018年9月2日  聖霊降臨後第一五主日  マルコによる福音書7章1〜15
「昔の人の言い伝え」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」》

  イエスさまがガリラヤ地方で人々に教え、さまざまな奇跡を行っていることがエルサレムにまで聞こえたのでしょう。イエスさまの教えが律法にかなっているかどうかを監視するために、宗教当局からファリサイ派の人々と数人の律法学者が遣わされて来ました。すると、彼らはイエスさまの弟子たちの中に手を洗わないで食事をする者がいるのを見つけて、イエスさまに、《なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか》と問い詰めました。これは律法違反を責める激しい詰問であり、返答次第では異端の教師として告発するぞという脅しです。
  汚(よご)れた手で食事をすることは衛生的に好ましいことではありませんが、ここでは、祭儀的な汚(けが)れが問題です。3〜4節はユダヤ人の状況を説明する挿入文です。《ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。・・・》。ユダヤ人たちが食事の前に念入りに手を洗うのは、聖書にそう記されているからではなくて、「昔の人の言い伝え」だからです。「昔の人の言い伝え」とは、モーセから世々の律法学者(昔の人々)を通して口伝で伝えられた律法の解釈とか具体的適用の細則のことで、聖書に記された成文律法(トーラー Torah 教え)に対して、口伝律法(ハラカ Halakhah 歩き方)と呼ばれるものです。そのハラカの中に、食事の前に手を洗うことも、どのように手を洗うのかその作法も決められていたのです。イエスさまの時代にはすでに、ハラカに違反することは直ちに律法違反とされました。
  日常生活の中で手は汚(汚す)れたものに触れる可能性はいくらでもあるので、手は汚れた状態です。その手で食事をすると、触れられた食物は汚れ、それを食べた人間も汚れます。汚れは伝染すると考えられていました。それで食事の前には、水で手を洗う儀式的な清めを行なわなくてはならないとされました。市場から帰って来たときは、病人や異教徒など汚れたものに接触してからだ全体が汚れている可能性があるので、全身浴をして清めなければならなりませんでした。
  ファリサイ派の詰問に対するイエスさまは、「手を洗わないこと」に対して直接に答えないで、むしろこの問題の根源である「昔の人の言い伝え=ハラカ」について論じます。イエスさまは聖書に記されている神の教えとファリサイ派の教えを切り離して、「ハラカ」を人間の言い伝えとして拒否します。そして、まことに大胆にも、《あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている》(七十人訳イザヤ29章13)と、彼らが人間の言い伝えを守り、神の戒めを捨てている倒錯を白日の下にさらしたのです。

  《9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」》
  イエスさまは、このハラカを全面的に拒否する理由について、コルバン規定を実例として、さらに説明します。年老いた両親の面倒を見るのは十戒の第四戒から当然しなければなりません。しかし、そこで両親を養うために用いる財産を、これはコルバン(神殿に献げる供え物)ですと宣言すれば、それを両親を養うために用いなくても良い。そのように「ハラカ」で教えていたのです。神への供え物は、たとえ親のためでも用いない。それは正しいのですが、それを隠れ蓑にして、自分の両親の面倒を見ることから逃れようとする。これこそ偽善ではないか、とイエスさまは言うのです。
  こうしてハラカの規定を利用して、「父と母とを敬え」という律法の根本精神が無視され、それを表す神の言葉が無効にされているのです。これはほんの一例にすぎません。《これと同じようなことをたくさん行っている》と、ハラカによって律法を守ろうとするユダヤ教の体系全体が否定しています。このような倒錯が起こるのは、ハラカのような細則は、ほんらい無制約な神への愛と隣人への愛の負債を制限することによって、律法を実行しているという自負を持ちやすくしようとする動機から出ているからです。
  これは何も、ファリサイ派の人々や律法学者に限ったことではありません。わたしたちキリスト者もまた、同じ過ちを犯すのです。神の御心に適った歩みをしようと願うこと。それは、神に愛され、神を愛する者として、当然の思いです。そのように生きる者として、わたしたちは救われ、召し出されたのです。しかし、だから私は正しいとなるならば、話は別です。神が求められるのは、悔い改めです。自らの罪に気づき、神に赦しを求めることです。
  自分の正しさの上に立とうとする者は、神を愛することも人を愛することもできません。自分が正しくないことを知らされた者は、神の前に悔い改め、隣り人との関係においても、自らの過ちを認めることができるのです。そしてそこに、愛をもって生きるという、新しい道が拓かれていくのでしょう。神を愛し、隣り人を愛するという道です。そして、この愛に生きるという道こそ、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた新しい道なのです。わたしたちが立つところは、ただ神の正しさであり、神の憐れみです。

  《14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」》
  ここで学者とファリサイ派は姿を消します。食事の手洗いの問題は決着がつけられたからです。代わりにイエスさまは「群衆」を呼び寄せます。学者・ファリサイ派との論争では、彼らが食事の規定についてハラカを大事にして、神の言葉を破っていると批判しました。ところがイエスさまは、ここでは、旧約聖書の規定それ自体さえ危うくするほど根本的な視点から、食物規定を解釈し直しています。
  この場面で《外から人の体に入るもの》といえば食物のことです。食物がどのような状態でも人を汚すことがないのであれば、それに触れる手が汚れているかどうかは問題ではなくなります。すると、手を洗うことは無意味であり、清めのハラカは不要になります。ハラカを厳格に守ろうとしているファリサイ派の人たちが、イエスさまの言葉に憤激したのは当然です。
  レビ記11章には、はっきりと清い動物、すなわち食べてもよい動物と汚れた動物、すなわち食べることが許されていない動物の区別が記されています。これは最も神聖な成文律法トーラーの一部分です。しかし、イエスさまは、その清い食物と汚れた食物のトーラーの規定を廃棄されたものとしたのです。これは、イエスさまの言葉の中でも「最も過激な発言」と言われます。《それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる》(7章19)。ただしこの後半の言葉は、口語訳ではイエスさまの言葉に含めず、マルコの注釈としています。《それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた》。
  イエスさまは十字架においてわたしたちの一切の罪を担ってくださった。自らの心の中から出て来る「罪」を認めて、赦しを願えば良いのです。これが悔い改めです。そうすれば、神との正しい交わりに生きることができます。この新しい道を歩むよう、わたしたちは召されているのです。


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