2018年9月9日  聖霊降臨後第一六主日  マルコによる福音書7章24〜30
「異邦の女の信仰」
  説教者:高野 公雄 師

  《24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。》

  マルコ福音書では、ここからイエスさまが弟子たちを連れて異邦の地を巡る旅が始まります。イエスさまは、《そこを立ち去って》つまりガリラヤから国境を越えて、異邦人の地であるティルスの地方に行きました。このティルスという町は、地中海に面する、大変古い、貿易で栄えた都市です。この町を建てたフェニキア人というのは、アルファベットのもとになる文字を使い始めた民族で、貿易を主とした海洋民族です。このフェニキア人のもう一つの代表的な町が、アフリカ北岸にあったカルタゴ(現在のチュニジア共和国の首都チュニス)です。このカルタゴという町は、ローマと地中海の覇権を争った、大変有力な北アフリカの都市でした。
  イエスさまはこの地方に来て、《ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた》のですが、《汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女》が、イエスさまのことを聞きつけて、救いを求めに来ました。マルコ3章8によると、イエスさまがガリラヤで病人を癒していたとき、ティルスからも多くの人が来て、イエスさまのいやしを受け、その力ある業を見ていました。すでにこの地方にもイエスさまの評判は広まっていたのです。
  ここで、マルコは、《女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった》と、この女の身元を強調することで、この出来事の意義をはっきりと言い表しています。まず懇願者は女で、しかも異邦の地域に生まれたギリシア人です。ユダヤの宗教的な指導者である男が、このような人と接触すること自体が異例です。その上、異邦人の女と「汚れた霊」に関して宗教上の会話を交わすことなど、通常では決して考えられないことです。ヨハネ4章9でサマリアの女がそう言っています。マルコはここで、イエスさまの伝道活動が、今までユダヤ人の宗教的指導者が越えることをしなかった大きな境界を踏み越えて、まったく新しい段階に入ったことを伝えているのです。
  イエスさまとこの異邦人の女との間に立ちはだかる壁は、予想通り厳しいものでした。この女の懇願に対して、イエスさまは、《まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない》と言って、これを拒絶します。ここで「子供たち」とはユダヤ人のことであり、「子犬」は、異邦人のことです。「パン」というのは救いのことで、この場合は、汚れた霊を追い出すといういやしの業を指しています。ユダヤ人たちは当時、ギリシア人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのです。
  イエスさまがこの女の願いを退けている理由ははっきりしています。《まず、子供たちに十分食べさせなければならない》ということです。つまり、まず最初に、神の民であるユダヤ人が救われなければならない。今はまだ、異邦人が救われる時は来ていないと言っているのです。マタイ15章24によると、このときイエスさまは、《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない》とも言われました。
  ここでイエスさまが言っていることは、神の救いの計画です。救われる者の順序です。イエスさまは、まずユダヤ人だと言って、異邦人であるこの女の願いを退けたのです。たしかに、神の救いに与るには順番があります。イエスさまが十字架に掛かって復活すると、すぐにイエスさまの福音は日本に来たわけではありません。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは16世紀のことでした。その後、キリシタンの弾圧があり、鎖国があって、ふたたびキリスト教が日本に伝えられたのは19世紀です。世界の人々が一斉にキリストの福音に聞き、悔い改めて救われるのではないということは、必ずそこに後先ということが起きるということです。どうして、このような順番があるのか、わたしたちには分かりません。それは、どうしてわたしが先に救いに与り、あの人この人がまだ救いに与っていないのか分からないのと同じです。はっきりしていることは、わたしたちの方が、まだ救いに与っていないあの人この人よりも立派であったとか、宗教的であったというような理由ではないということです。わたしたちは、たまたま神の御心の中で、その人たちより先に救いに与っただけなのです。そして、そのような人たちにわたしたちは囲まれているわけです。家族の中でも、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう中で、わたしたちはどうするのか、その人たちをどう理解し、その人たちのために何をするのかということです。
  彼女は、自分が主なる神との契約の外の人間だと知っており、断られることは分かっていました。それでも諦めません。イエスさまが「小犬」と言ったのを受けて、すかさず自分を小犬にたとえて、《主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます》、と切り返しました。これは驚くべき知恵です。彼女のうちには、イエスさまの言葉にあえて逆らってまで、厳しい壁を試練として乗り越える強い信仰が働いているのが分かります。彼女の言葉を敷衍するとこうなるでしょう。「主よ、たしかにわたしは、神がさまざまな約束を与えている神の民イスラエルの一員ではありません。食卓につく子供ではなく、食卓の下にいる小犬です。けれども、食卓の下の小犬でも食卓から落ちるパン屑はいただくのですから、異教徒のわたしも、あなたがイスラエルに与えている神の救いをいただくことはできるはずです。主よ、わたしを助けてください」。
  多くの学者は、ここに彼女の「謙虚」と「信仰」を読み取っています。しかし、神への信仰と謙虚さと同時に、彼女には、イエスさまに対する揺るがない信仰があることに注意しなければなりません。
  彼女は、イエスさまの神がほんものだと見抜いただけでなく、大事なのは、イエスさまなら、きっと彼女を受け容れてくれるという「確信」があったのでしょう。この確信が彼女を動かしたのです。プライドも何もかも忘れて、ひたすらイエスさまにお願いしたのです。イエスさまならきっと聞き入れてくださるという人格的な信頼です。イエスさまを信頼し、その信仰をどこまでも曲げなかったのです。こういう理屈抜きの信仰が、イエスさまを動かしました。
  イエスさまは彼女の言葉を聞いて感心し、これを受け容れます。《そこで、イエスは言った「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」》。こう言って、イエスさまは彼女の娘をいやされたのです。
  ここのイエスさまの言葉は、イエスさまがしばしば言われた《あなたの信仰があなたを救った》(マルコ5章34、10章52など)と同じです。信仰が、そして信仰だけが神との現実のかかわりをもたらし、神の力を体験させます。同じ記事が記されているマタイ15章28では、イエスさまは、《婦人よ、あなたの信仰は立派だ》とまで言われました。じつは、マルコ福音の中で、イエスさまを「主」と呼んだのは、この女性だけです。弟子たちでも、ユダヤ人たちでもありませんでした。イエスさまは、ふつう「先生」と呼ばれていました。神の救いに与る資格がないことを認め、自らの無力さの中で、イエスさまにゆだねきった異邦人の一人の女こそが、イエスさまを「主」と呼んだのです。
  きょうの出来事には、異邦人に対するユダヤ人の優越性がはっきり示されています。しかし、ここでは、そのような優劣が問題ではなく、信仰には「試練」が伴うこと、すなわち信仰は「試される」ことでほんものになるという教えが含まれていると見るべきでしょう。宗教改革者のルターは、この女性はまるでヤコブのようだと言いました。ヤコブは故郷に入ろうとするときに、ヤボク川の渡しで神と格闘しました。相手が去らせてくれと言うと、ヤコブは、《いいえ、祝福してくださるまでは離しません》(創世記32章27)と答え、一晩中、格闘してついに神から祝福をもらったのです。ルターは、この女性はまるで、そのヤコブのようだと言うわけです。彼女はユダヤ人でもないのに救われ、異邦人のクリスチャンの先頭に立って、祝福のパンをいただきました。彼女は取っ組み合いはしませんでしたが、イエスさまの足下にひれ伏して食いさがりました。ここには、娘のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けることのない神の姿があります。
  このことを知ったわたしたちは、どうすべきでしょうか。この女性のように、まだ救いに与っていない人のために、疲れた者、重荷を負う者のために執り成すことです。神は、それを喜んで受け取ってくださいます。


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