2018年9月23日  聖霊降臨後第一八主日  マルコによる福音書8章27〜38
「ペトロの誤解とイエスの受難予告」
  説教者:高野 公雄 師

  《27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。》

  きょうの個所は、イエスさまがご自分について証しする重要な個所であって、このマルコ福音書の分岐点となります。ここから以後、イエスさまはまっすぐにエルサレムに向かい、メシアとしての使命を成就することになります。
  イエスさまはフィリポ・カイサリア近郊の村々をめぐる道すがら弟子たちに尋ねます。《人々は、わたしのことを何者だと言っているか》。フィリポ・カイサリアという町の名は、ローマ皇帝(カイサル)にちなんでいますが、カイサリアという地名は他にもあるので、この地の領主ヘロデ・フィリポは自分の名前を付け加えて命名したのです。このヘロデ・フィリポは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスの異母兄弟であって、その領地はガリラヤ湖の北、ヨルダン川の水源のある、イスラエルの最北端の領土です。
  さて、イエスさまの問いかけに対して、弟子たちは、人々がイエスさまについて噂していることを報告します。《「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も・・・います》。
  洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに向かって物申すことのできる人物でした。あなたが兄弟フィリポ(当時の歴史家ヨセフスによるとヘロデ・ボエートス)の妻ヘロディアを横取りして自分の妻としているのは正しいことではないと、面と向かって抗議をして、そのために殺害されました(6章14〜29)。人々はヨハネを旧約の偉大な預言者エリヤの再来と見ていました。そのエリヤはイスラエルの王アハブ、王妃イゼベルと対決した人物です(列王上17〜21参照)。そして、エリヤは終わりの日に世に現れる預言者して待ち望まれていた人でもあります(マラキ3章23)。人々は、イエスさまを時の権力者に対して立ち向かう預言者たちと重ね合わせて、イエスさまにローマ帝国に立ち向かう人物として期待したわけです。
  イエスさまは、それを受けて、弟子たちに問いかけます。《あなたがたは、わたしを何者だと言うのか》。弟子たちを代表して、ペトロは《あなたは、メシアです》とその信仰を告白しました。「メシア」とは「油注がれた者」というヘブライ語で、ギリシア語では「キリスト」と言います。それは、イスラエルが危機を迎えるたびに、神から遣わされた、油を注がれた指導者が出て来て、イスラエルは何度も救われて来たのです。そして、長い期間、指導者を失っていたイスラエルに、今ようやく再び油注がれたお方メシアが現れた、それがあなたです。ペトロはこう答えたのです。
  ところが、その告白を聞いたイエスさまは、《御自分のことをだれにも話さないように》、と彼らを戒めます。「よく言った。さあ、今からこのことを人々に告げ知らせなさない」と言うのかと思うと、意外にも、誰にも話してはならないと言うのです。ペトロの「あなたはメシアです」という信仰告白は、言葉としては正しいのですけれども、言葉の中身がイエスさまが目指している方向とはまったく逆だったのです。弟子たちはこの時から、イエスさまがメシア(キリスト)であることは、受難と死と復活に結びつくことを学ぶことになります。

  《31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」》

  ここからは、イエスさまが弟子たちに教えられたことが書かれています。先ずは、ご自分の受難と復活の予告です。ペトロがまるで思ってもみなかったことをイエスさまは語ります。自分を救ってくれるお方はローマの権力に立ち向かっていってくれると期待していたのに、イエスさまは、ローマどころか、同朋であるユダヤ人の指導者たちから殺されると言います。ペトロは、そんなことは断じてあってはならないと、イエスさまをわきに連れて行って、いさめます。ところが、イエスさまは、受難が神の定めによって「必ず」起きることを予知しているのです。イエスさまは叱って言います。《サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている》。ペトロの「いさめる」とイエスさまの「叱る」は、原語では同じ言葉です、ペトロをサタンと呼ぶのも異例です。イエスさまと弟子たちの意見の対立の激しさが表れています。
  わたしたちの弟子たちと同じです。たいていの場合、人は救いを必要としていません。自分の力で人生は切り開いていくものだと考えています。しかし、人それぞれの理由があって、教会に通うようになり聖書に親しむ中で次第に、神はわたしに心を向け、わたしの人生を支えてくださるお方だということ、イエスさまが救い主であることが分かってきます。そして、それと共に、で自分が救いだと思っているゴールと、イエスさまが連れて行きたいと思っているゴールはぜんぜん別方向にあることに気づくのです。
  それから、イエスさまは、《群衆を弟子たちと共に呼び寄せて》言われました。この「群衆」というのは、この福音書の著者マルコが、このイエスさまの言葉は弟子たちだけに語られた言葉ではない、これを読むわたしたちに対する語りかけだと受け止めて、こう書き加えたのだろうと考えられています。
  次ぎにイエスさまはこう語りかけます。《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》。イエスさまは弟子を召すとき、いつも「わたしについて来なさい」と言っていましたが、ここで初めてその内容が明白な言葉で語られました。この「捨てる」という言葉は、ペトロがのちにイエスさまの裁判のとき、三度、《そんな人は知らない》とイエスさまを否認しますが、まさに、それと同じ言葉です(14章66〜72)。わたしたちが持っているこれが救いだという理解や願望を捨てる、自分そのものを捨てるという生き方が「自分の十字架を背負って」という言葉で言い表されています。この言葉に人は強い拒否反応を起こすでしょう。
  わたしたちは自分の命を保ち意味あるものにしようとします。ところが、生きるための自然の欲求を超えて、自分の所有を増やそうとしてしまうのです。そして、その貪欲があらゆる悪の根源になるのです。イエスさまは言います。《有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない》(ルカ12章15)。わたしたちの命は神のものであって、自分で自分の命を救うことは不可能なのです。
  ですから、イエスさまは言います。《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか》。「ひとりの命は全地球よりも重い」という言葉がありますが、それはこの聖句に基づくものだそうです。イエスさまは、ひとりの人の命というのはそれほどに重みのあるものであると見ているわけです。イエスさまの言葉は続きます。《自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》。しかし、じつはイエスさまがすでにその代価を支払ってくれていたのです。使徒パウロはその事情をこう述べています。《しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました》(ローマ5章8)。人はこのように神に愛されているから、それほどの価値があるのです。ここに、わたしたちが思い描いている救い以上の救いがあるのです。
  この救いが与えられているので、わたしたちは、自分を捨て、自分の十字架を負って従いたいと志せるのです。そして、イエスさまの示す道を追い求めているならば、わたしたち自身も、人のために生きることができるようにされていくのです。イエスさまは、わたしたちを確かなところに導いてくださいます。「あなたの命は全世界よりも尊い」と言ってくださるイエスさまが共にいてくださるこの今の生活には、わたしたちの将来に約束されている救いそのものがすでに備わっているのです。


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