2018年9月30日  聖霊降臨後第一九主日  マルコによる福音書9章30〜37
「ふたたび死と復活を予告する」
  説教者:高野 公雄 師

  《30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
  33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」》


  ペトロがイエスさまをメシアと告白してから、イエスさまは十字架と復活についてはっきりと語るようになりました(8章27〜38)。そして、イエスさまは、エルサレムにおいて十字架に掛かることへとぶれることなく歩みを進めています。そういう時に、しかし弟子たちは《だれがいちばん偉いか》と議論していたのです。これは、先にイエスさまがペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて山へ登ったことが弟子たちの念頭にあったからだと思われます。この個所は、イエスさまの見ている方向と弟子たちの見ている方向が違っていることをはっきりと示しています。弟子たちは、イエスさまがその力をもってローマを追い払って、ダビデ王の時代のように、再びイスラエルを復興されると思っていました。そして、自分たちはイエスさまの側近として高い地位に就くことになるであろう。その時には、それどれの身分にどういう序列がつくだろうかと論じ合っていたようです。イエスさまが《何を議論していたのか》と尋ねると、弟子たちはさすがに後ろめたくて、黙っていました。弟子たちのように口に出すことはなくとも、わたしたちの中にも、弟子たちと同じく、人と優劣を競う思いが無いとは言えないでしょう。わたしたちは、人と比較して優越感を持ったり、逆に劣等感を持ったりするものです。
  もちろん、弟子たちはここで、世間的な関心からでなく、信仰心をもって議論していたはずです。誰がいちばんイエスさまに仕えているか、誰がいちばん神の御心に適っているのかと考えたに違いありません。しかし、それは、この世の競争原理を、神の救いにあずかること、神に仕えることにまで持ち込んでしまったということなのです。イエスさまに従う道は、人と優劣を競うようなものではありません。どんなに善い業、愛の業でも、人と比べ始めるとき、それは御心からはずれてしまいます。わたしが一番になろうとする思いが頭をもたげてくるからです。
  さて、イエスさまと弟子たちの一行は、イエスさまが活動の拠点とされていたガリラヤ湖畔の町カファルナウムに帰ってきました。そして、《家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった》、とあります。その家というのは、ペトロとアンデレの家のことでしょう。そして、後でイエスさまが子供を抱きあげますが、それはペトロの子供だったのではないかとも言われます。それはともかくとして、イエスさまが道の途中では口をはさまず、家に入ってから「何を議論していたのか」と尋ねたのは、これをどんなに深刻な問題として感じていたかということであり、とくに弟子たちだけのところで教えておきたいことを語り出したということです。
  イエスさまは十二弟子を呼び寄せて、《いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい》、と言われました。この言葉は重要です。これは弟子たちに対するたんなる道徳訓ではなく、イエスさまご自身の心を表わし、イエスさまの本質を語っているからです。イエスさまご自身が「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」となって、十字架に至る道を歩んでいます。イエスさまはすべての人の救いに仕えるために、ご自分を十字架の死という最も低い場に置かれるのです。
  この言葉は、9章31で《人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する》、と十字架と復活の二回目の予告をされた直後に記されています。弟子たちはイエスさまのこの十字架と復活の言葉が分かりませんでした。しかし、《怖くて尋ねられなかった》のです。それは、自分たちの見る夢が破れるのを恐れて、分かろうとすることを避けていたということです。そこで、イエスさまは35節以下の言葉を語ります。一方、8章34の《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》も同じです。8章31でイエスさまは十字架と復活の一回目の予告をされました。するとペトロが、そんなことがあってはなりませんと、イエスさまをいさめました。ペトロも弟子たちも、みんな訳が分からなかったのです。そこでイエスさまは、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》と言われました。話の進み方はまったく同じで、十字架と復活の予告の後に、弟子たちの無理解に対して告げられた言葉です。ですから、これらの言葉も、イエスさまの十字架と復活の出来事と結びつけて受け取らなければなりません。
  では、「すべての人に仕える」とはどういうことでしょうか。イエスさまはここで、「すべての人に仕える」とは、《わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる》ことだと言われます。子供は、何時の時代でも、世の中が不幸や災害や戦争に襲われた時には、だれよりも最初に犠牲にされる弱い存在です。つまり、イエスさまが「子供を受け入れる」と言われた子供とは、「小さい者」、存在する価値もないとして社会で無視されている者を指しています。ですから、この「子供」を現代の言葉に置き換えると、社会的弱者、経済的に貧しい人、障害者、さらには、自分の身の回りのことができなくなった高齢者ということになるでしょう。そのような人を、自分たちの仲間として、大切な人として受け入れ、これに仕えるということなのです。そのような者を受け入れることは、自分をそのような低い場に置くことになります。
  そして、イエスさまは、《わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである》、と宣言します。神を自分の中に迎え入れ、神と共に生きることは人間の究極の救いですが、その救いに到達する道がここに示されています。その救いに至るためには、神が遣わされたイエスさまを自分の中に受け入れればよいのです。そして、イエスさまを受け入れるとは、イエスさまの名によってこの世の「小さい者」を受け入れることです。イエスさまの名によって「小さい者」を受け入れて生きる者が、神と共に生きる救いに至るのです。このことは、マタイ25章の「人の子が羊と山羊を分ける」譬(たとえ)で、くわしく描かれています。そこでは王が、社会で無視され苦しめられている者を世話した人たちに、《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)と宣言しています。父である神はすべての人をわが子として愛し、だからこそ、特別に小さい者にいつくしみを注がれる方です。イエスさまの口を通して、神がこの世の暗部に目を注がれていることを教えられます。
  また、イエスさまは、《このような子供の一人を受け入れる者は》と言われました。すべての人に仕えるとは、具体的な目の前にいる「一人の子供」を受け入れ、愛し、仕えることなのです。イエスさまが「すべての人に仕える」と言われたのは、一人の人に対してどうするのかということなのです。イエスさまは、すべての人に仕えるために来てくださいました。それは具体的には、「このわたしのために」十字架に掛かってくださったということなのです。
  弟子たちは、誰がいちばん偉いかと論じたとき、イエスさまは外して、自分たちの中で誰が偉いのかと論じたでしょう。しかし、それが問題なのです。イエスさまが一番偉いということが明らかにされるとき、同時に、わたしたちはただの罪人に過ぎないということも明らかにされます。わたしたちは、自分がただの罪人であることを忘れると、人と比べ、誰が偉いかと言いはじめます。自分もまんざらではないと思いはじめるのです。これが信仰の堕落です。
  わたしたちは、ただイエスさまを見上げて、イエスさまに従っていくだけです。その時、自分の隣にいるのは、ライバルではなくて、共にイエスさまに仕える同労者であり、心から愛すべき友であり、神の家族なのです。わたしたちは本当に、ただの罪人です。しかし、そのわたしのために、神はイエスさまを与えてくださいました。この神の愛だけが、わたしたちを助け、わたしたちを救い、わたしたちを生かすのです。自分を低くして仕える者となられたイエスさまに、わたしたちが近づくことができますように、お互いに信仰の成長を大切に考えていきましょう。


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