2018年10月7日  聖霊降臨後第二〇主日  マルコによる福音書9章38〜50
「つまずきについて」
  説教者:高野 公雄 師

  《38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」   「42 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。49 人は皆、火で塩味を付けられる。50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」》

  きょうの福音は、先週の個所の続きで、弟子のあり方についての教えですが、段落が二つに分かれています。前段は、優越感や競争意識をもったりしないで、他者に開かれた寛容な態度を身に着けよという教えでしたが、後段落は「つまずき」を問題にしています。
  イエスさまが語る神の国の福音そのものに対して疑問を持つのは、悪いことではありません。神に問いかけるのは、神の方を向いていることだからです。「つまずき」というのは、信仰生活において、神を信じることができなくなってしまうことです。つまずきは、信仰を持たない人々との関係においても起こるでしょうけれども、信仰を持って歩んでいる人々との間で起こるつまずきはもっと深刻です。教会の交わりの中で、人々のふるまいによって傷つくことは絶えず起こりえるのです。キリストに従う歩みは、一人だけで悟りを開くようなこととは異なります。教会の集いの中で、共にキリストに従う人々と交わりを通して、キリストの体の一部となって歩むのです。そして、教会は罪ある人間の集まりですから、教会はつまずきを避けられないのです。《つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である》(ルカ17章1)と言われているとおりです。信仰生活におけるつまずきは、わたしたちが肉体を持ち、人々との関係を持つかぎり、必ず起こることです。わたしたちは、イエスさまに従う歩みにおいて、ときに周囲の人の言動につまずき、ときに自らの言動によって他人をつまずかせて歩んでいるのです。
  イエスさまは、人を「つまずかせる」ことに対して激しい言葉を語ります。《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい》。ここで、《わたしを信じるこれらの小さな者》とは、イエスさまに従う者、弟子たちを含めた信仰者を指す言葉です。誰が一番偉いかと議論していた弟子たちに対して、イエスさまは子供を抱き上げて示しました(9章36)。イエスさまが抱き上げてくださらなければ、そこにいることさえ忘れられてしまうような者が「小さな者」です。前段に、《はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける》とありますが、「小さな者」とは、この「あなたがた」のことです。「あなたがた」が、たとえこの世においてどれほど小さな者であったとしても、神の目には大切な一人です。ですから、誰かがたった一杯の水を飲ませただけであっても、あたかも神は自分がその親切を受けたかのように、自ら報いられます。その人は《必ずその報いを受ける》のです。信仰において自らを高め、人々の間で偉くなろうとする思いが支配しているとき、教会の交わりは、イエスさまを信じる小さな者をつまずかせてしまうものとなるのです。
  この世界には、水を飲ませてくれる者だけでなく、つまずかせる者もいます。「あなたがた」が受ける親切をわがことのように考える神にとって、その人が誘惑や迫害によって神から離れてしまうことは一大事なのです。ですから、イエスさまは過激な表現を用いて言います。《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい》。これは脅しの言葉ではありません。《わたしを信じるこれらの小さな者の一人》に対する神の愛と情熱の言葉です。
  しかし、つまずかせる者は必ずしも外にいるとはかぎりません。迫害者や悪意をもって誘惑してくる者ばかりが問題なのではありません。そうではなくて、つまずきの原因が自分の内にあることがあります。自分が自分をつまずかせ、自分が自分を神から引き離してしまうことがあるということです。わたしたちの手足や目が、自らをつまずかせるのであれば、自分自身からつまずかせる原因となるものを切り捨てて行くように、とイエスさまは言うのです。《もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい》。神の思いは、たとえ自分の手足や目によってさえ、つまずかされて欲しくないということです。神はそのような思いで、わたしたちの信仰生活を見ていてくださるのです。イエスさまは言います。《命にあずかる方がよい》、《神の国に入る方がよい》。それが神の願いです。
  迫害の時代、現実に片手や片足を切り落とされたり、目をえぐり出されたりするということもあったことでしょう。そのときに、《一つの目になっても神の国に入る方がよい》、というイエスさまの言葉はどれほど力強く響いたことでしょう。わたしたちも人生の途上において、迫害がなくても、実際にさまざまなものを失いながら生きて行きます。そのときに、失ったものを嘆き悲しみながら生きて行くのか、それとも「少なくとも、それによってつまずかされることはなくなった。神から引き離されることはなくなった」と思いながら、まったき救いへと向かって歩いて行くのか、それは大きな違いとなるはずです。神から引き離されることがなければ、神が与えてくださる永遠の救いへと向かっているならば、真に価値あるものは何も失ってなどいないのです。
  信仰生活におけるつまずきは、神との関係よりも人間との関係のみに関心を向けるときに生まれます。ここで、目や手足によってつまずかないとは、人々との関係において、どのようなことを見ても、どのようなものに接しても、それによって神との関係を壊さないということです。イエスさまの後に従って歩むとは、自分自身を含めて、共に従う人々の、どのような姿に直面しても、そのことによって、神から離れるのではなく、すべてをイエスさまに委ねて、その後に従って行くことです。信仰の根拠、教会生活の根拠を人間関係ではなく、救いの恵みにしっかりと立ったものにしなくてはなりません。
  そこで、きょうの個所の最後に、イエスさまは、《自分自身の内に塩を持ちなさい》と諭します。塩は人間の生命維持に必要不可欠なものですが、ここで「塩を持つ」とは、どのような意味でしょうか。そのことを考えるにあたって、わたしたちは、イエスさまの十字架を思い起こしたいと思います。神はイエスさまを世に遣わし、人々をつまずかせてしまうわたしたちが受けるべき裁きを、十字架上で受けて、わたしたちの罪を赦し、新しい命への道を開いてくださいました。この神の恵みこそ、わたしたちが生きるために無くてはならない塩なのです。わたしたちは自分の内に塩味を付けるものがなくても、イエスさまの恵みによって、わたしたちは塩味が付けられるのです。
  イエスさまは、ご自身を十字架において献げてくださった方でした。イエスさまが人々の下に降り、神に裁かれて十字架で死ぬことは、《石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれ》ることにたとえることもできるでしょう。また、イエスさまこそわたしたちのために裁かれ、《地獄の消えない火の中に》投げこまれた方だと言うこともできるでしょう。イエスさまの十字架が、裁きの火、地獄の炎を、恵みの塩に変えたのです。わたしたちは、この救いの恵みを受け入れることによって、「自分自身の内に塩を持つ」ことになるのです。
  わたしたちが自分の力に依り頼むことをやめ、神の恵みに身をゆだねることによって、自分がつまずくこともなく、人をつまずかせることもない歩みが与えられるのです。イエスさまがわたしたちのためにへりくだってくださったことを受け止めて、その恵みによって味付けられるときに、わたしたちは、お互いに、わたしたちのためにへりくだられたイエスさまの愛を示す者とされます。神の恵みという塩味が」あってこそ、50節の最後に言われているようにわたしたちは、「互いに平和に過ごす」ことができるのです。そして、このように歩むことこそ、どんな小さな一人をも滅ぼすまい、とその身を献げられたイエスさまの命にあずかることなのです。


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