2019年5月12日  復活後第三主日  ヨハネによる福音書10章22〜30節
「イエスと父は一つ」
  説教者:高野 公雄 師

  《22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30 わたしと父とは一つである。」》

  きょうの福音書は、初めに、《そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった》とあるとおり、エルサレム神殿において行われたイエスさまとユダヤ人たちとの論争です。
  この神殿奉献記念祭(口語訳では「宮きよめの祭」)というのは、ハヌカ(「奉納」とか「献堂」という意味)と呼ばれる、キスレウの月(現行暦の11〜12月)の25日に行われるユダヤ教の祭りです。この祭りは、過越祭や仮庵祭のように旧約聖書に起源を持つものではなく、イエスさまの時代より200年ほど前の出来事を記念して守られる祭りです。その頃、ユダヤを支配していたのはセレウコス朝シリアでした。アレキサンダー大王の東方遠征によって巨大な帝国が生まれましたが、アレキサンダー大王の死後、すぐに部下たちによって三つに分割されました。その一つがセレウコス朝シリアです。このシリアの王、アンティオコス・エピファネスが、彼らの文明いわゆるヘレニズム文明を広めることをその占領政策として、ユダヤ人たちにギリシアの宗教を強要し、エルサレムの神殿にギリシアの神々の像を置いてユダヤ人たちに拝ませ、割礼を禁じたのです。これに対して、ユダヤ人たちは抵抗し、多くの人の命が失われました。そして2年余の戦いの後、紀元前164年のキスレウの月25日に、エルサレム神殿にあったギリシアの神々の像を取り除き、再び主なる神を礼拝できるようになりました。これが神殿奉献記念祭の始まりです(旧約聖書続編、第一マカバイ記4章59節)。それ以後、今日まで毎年祝われてきました。この戦いを指導したのがユダ・マカバイ(意味は「鉄槌」、ユダのあだ名)というハスモン家の祭司です。ですから、この祭りのとき、ユダヤ人たちは200年前にマカバイによって自分たちの信仰を守った出来事を思い起こし、民族的・宗教的高揚を覚えたのです。
  ちなみに、ヘンデルはこの故事を題材にして、「ユダス・マカベウス」というオラトリオを作曲しました。その中の合唱曲「見よ勇者は帰る」は、よく表彰式などに使われましたが、讃美歌にも使われています。それが、私たちにもなじみの深い、453番「栄えあれ、死に勝ちて」という曲です。
  そのような祭りのときに、ユダヤ人たちがイエスさまを神殿で取り囲んで、《いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい》と問うたのです。ここには、ローマ帝国の支配の中で、救い主・メシアを待ち望むユダヤ人たちの願いが表明されていると見て良いでしょう。マカバイが大国シリアを破ったように、イエスさまがローマ軍を打ち破ってくれるのではないか。そのような期待を込めて、こう尋ねたのでしょう。
  しかし、イエスさまの答えは、「その通り。わたしがメシアである」ではありませんでした。そうではなくて、《わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない》でした。イエスさまが「わたしがメシアだ」と答えなかったのは、この神殿奉献記念祭というときに、もし「わたしがメシアだ」と答えたならば、人々はイエスさまを200年前に強大なシリアを破ったマカバイのように、軍隊を率いてローマ軍を破り、ユダヤ民族の解放のために働く指導者と見なし、そのような人として祭り上げたでしょう。しかし、イエスさまは、人々が思い描くそのような救い主・メシアではありません。
  人々は、救い主と言えばこういう方だと勝手にイメージして、その中にまことの救い主であるイエスさまを当てはめようとします。まことの救い主によって、自分の中の救い主のイメージを変えようとはしません。けれども、イエスさまはユダヤ民族の救い主といった小さな存在ではありません。イエスさまは、天地を造られたただ独りの神の御子ですから、ユダヤ人だけを救うお方ではなく、ローマ人をも含めすべての民をその救いに与らせるお方なのです。直前の段落の16節でイエスさまが《わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない》と言っているのはそういう意味です。異邦人の救いをも語られたのです。しかし、ユダヤ人たちにそのような救い主のイメージはありませんでした。救われるのはユダヤ人たちだけだと固く信じていたからです。ですから、そのイメージを持ったままの人々に、「そうだ。わたしが救い主だ」とは言えなかったのです。言葉は同じ「救い主・メシア」でも、その姿は全く違ったものだったからです。
  これは、いつの時代、どの国においても起きることです。21世紀の日本においても同じです。たとえば「神」、「信じる」、「愛」、「救い」などなどの言葉はことごとく、聖書と日本語では違っています。言葉はその言葉の持つ歴史や文化と深く結びついていますから、私たちは聖書の説き明かしというものを、どうしても必要とするのです。さもないと、聖書をみんなが勝手に自分のイメージで読み込むことになります。そして、聖書が語ろうとしていることではないことを聖書の中に読み込んでいってしまいます。私たちは、この主日礼拝のたびごとに、イエスさまが与えてくださった救いの出来事、救いの恵みに共に与ることによって、聖書と同じ言葉を理解し、聖書の言葉を語り合い、同じ言葉で祈り合う共同体を形作っているのです。聖書は、この言語を持つ民と共にあるのであって、教会抜きに聖書だけがあっても、それを正しく読み、受け止めることはできないのだと思います。まさに、イエスさまの声を聞き分ける民によって、聖書は読まれ、聞かれ、受け取られ、神の言葉であり続けてきたのです。
  きょうの段落の最後で、イエスさまは《わたしと父とは一つである》と宣言しています。これは実に明確な、そして大胆な、イエスさま御自身が誰かということを示している言葉です。これを聞いて、《ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた》(31節)ということです。ユダヤ人たちにとって、人間を神に祭り上げることほど神を冒涜するものはありません。石で打ち殺さなければならない最悪の罪でした。ユダヤ人は、あのマカバイ戦争において、偶像礼拝から自らを守るために多くの命を落としたのです。このユダヤ人の信仰はまったく正しいのですが、ここに一つ、死活的な盲点がありました。それは、天地を造られた神がその全能の力をもって、私たちの思いを超えた愛のゆえに、人間になるという道でした。人が神となるのではありません。神が人となられるのです。これは、人々の想像力をはるかに超えた出来事でした。イエスさまは天地を造られた神の独り子、父なる神と共に天地を造られ、父なる神と永遠に一つであり、永遠に生きておられる神の御子が、人となられたのです。何か優れた人間を、あの人は神だと言って祭り上げたのではないのです。
  ところが、ユダヤ人たちはイエスさまを信じませんでした。なぜでしょうか。《しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う》。このように、羊飼いと羊の関係のたとえを用いて、彼らはもともと真の羊飼いであるイエスさまに属する羊ではないからだと言い切ります。しかし、神は私たちをイエスさまの羊として選んでくださった。だから、羊が飼い主である羊飼いの声に聞き従うように、私たちはイエスさまの声を聞き分けて、イエスさまを神の子、救い主と信じ受け入れるのだと言うのです。私たちが、自分の理解や意志でイエスさまを自分の羊飼いとして選んだからではなく、神の選びの恵みによって私たちをイエスさまのものと予め定められたからだということです。そして、《わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない》。良い羊飼いが羊たちを牧草地と水辺に導いて豊かに命を与えるように、イエスさまは御自分に属する私たちに永遠の命を与えてくださいます。また、良い羊飼いに導かれる羊たちは飢えて滅びることがないように、イエスさまから命を受ける者は《決して滅び》ることも、御手から奪われることもありません。私たちは、神の御手の中で、確かな平安の中に生きることができるのです。
  では、どうして神は私たちを選んでくださったのでしょうか。その理由は私たちには分かりません。私たちはただ、この神の御心にかなう歩みをしていきたいと願うだけです。


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