2019年5月19日  復活後第五主日  ヨハネによる福音書14章23〜29節
「キリストの平和」
  説教者:高野 公雄 師

  《23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。》

  イエスさまは十字架につく前に、御自分が十字架につくこと、復活すること、そして聖霊が与えられることを弟子たちに予告しました。そして、この預言はことごとく成就しました。私たちに聖霊が注がれているという恵みの現実は、このイエスさまの約束が果たされたということです。
  25節に、《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した》とあります。「これらのこと」というのは、イエスさまが今まで話されたことすべてを指していると考えて良いと思います。イエスさまが神と等しい方であること、イエスさまが天から降って人間と同じ姿となられたこと、そのイエスさまが私たちに代わって十字架につかれること、三日目に復活すること、聖霊が注がれること、互いに愛し合うこと、等々です。
  そして26節に、《しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》とあります。きょうの個所の前、16節で、《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる》と約束されましたが、ここに《聖霊》とは一体どういう方であるかが、よりはっきりと示されています。二つのことが言われています。一つは、《わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》こと、もう一つは、新しく《あなたがたにすべてのことを教え》ることです。聖霊はイエスさまの代わりに、イエスさまの名によって働かれるのです。
  いままで私たちは、弟子たちがイエスさまが言われることを少しも理解できなかたということばかり聞いてきました。そのような弟子たちが、どうしてこのような福音書を記すことができたのか不思議です。この不思議を解く鍵が、聖霊なる神なのです。
  弟子たちは、イエスさまが語ったことの意味を、語られた時点ではよく分かっていなかったはずです。ところが、イエスさまが十字架につき復活して、弟子たちに聖霊が注がれました。この聖霊なる神が、イエスさまが語ったこと、行なったことを思い起こさせ、その意味を教えたのです。ですから、このように福音書ができたわけです。歴史的に言えば、この福音書が記されたのはずいぶん後のことです。しかし、この福音書が記される前に、使徒たちを初めとしたイエスさまの弟子たちが、イエスさまが語ったこと、行なったことを宣べ伝えていたのです。それらを語って、主の日の礼拝が守られていました。そして、そのイエスさまの弟子たちが語っていたことを元にして、福音書は成立しました。ですから、この福音書の記述の背後には、主の日の礼拝があり、イエスさまを礼拝し、信じて歩んでいたキリストの教会があったのです。福音書というものは、誰か天才的な作家が一人で書き上げたものではありません。この福音書の記述には、イエスさまの行なったこと、語ったことを、聖霊なる神の導きの中でしっかり思い起こし、その意味を明らかにされたイエスさまの弟子たちの働き、イエスさまによって立てられた預言者としての弟子たちの働きがありました。それを自分たちの告白として語るのではなく、あくまでイエスさまの言葉として語るのです。もちろん、これを記述する際にも、聖霊なる神が働かれました。ですから、福音書の言葉は、イエスさまの言葉であると同時に、教会の信仰告白でもあるのです。
  この聖書という書物は、このように、その成立の時から聖霊なる神の導き、支配の下にあったわけです。それは、現在でも同じです。聖書を新しく読み解くこの説教というものも、聖霊なる神が働いてくださらなければまったく分からない、そういうものなのです。日本語で話されているのは分かる。しかし、何が語られ、告げられているのか分からない。心に響かない。聖霊を注がれることがなければ、聖書も説教も分かりません。しかしこのことは、逆に言えば、聖書が分かる、説教が分かる、という人は、すでに聖霊なる神の働きの中にいるということなのです。
  そして、この聖霊なる神の働きの中で私たちには平和が与えられるのです。27節にこう約束されています。《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな》。この《平和》という言葉はヘブライ語の「シャローム」の訳語ですが、シャロームは「平和・平安」という言葉よりも広い内容を含む言葉です。しかし、ここでは「心を騒がせず、おびえないでいる」ことを内容としているので、口語訳のように「平安」と訳しても良いでしょう。これは、14章1節で言われた《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい》と同じことです。神を信じ、イエスさまを信じること。それは、聖霊なる神の働きの中で、私たちに与えられる信仰によることです。そして、父なる神を信頼し、イエスさまを信頼するなら、必ず私たちに平和・平安が与えられます。これはイエスさまの約束です。
  人はみな平安を願います。人間の営みは、結局は平安を確保するためであると言っても良いくらいです。誰もが身体の健康、対人関係や社会生活の平穏を維持するために努力しています。それが「世が与える平安」です。しかし、努力して平穏な生活を送れたとしても、人には死の不安とか、存在の無意味さへの恐れがあります。このような不安の中にいる人間に、イエスさまは《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える》と言われます。その平安は、復活したイエスさまが送ってくださる《弁護者》なる聖霊によって内面の奥深くに生じる平安です。
  この平和・平安がどのようなものか、エフェソ2章の言葉が有名です。《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです》(エフェソ2章14〜17)。
  イエスさまが私たちに残されたこの平和・平安が分かるのは、すなわち、イエスさまの御手にしっかり捉えられている恵みの現実が分かるのは、聖霊なる神の導きによってしか起き得ません。イエスさまの語ったこと、行なったことが分かる。イエスさまがまことの神であることが分かる。イエスさまに愛されていることが分かる。これらはすべて、聖霊なる神の働きの中で、私たちに起きることです。そしてこのとき、私たちに平安が与えられるのです。
  聖書が「平安あれ」「思いわずらうな」と告げるとき、旧約以来いつもただ一つのことが根拠として示されます。それは、「わたしが共にいる」ということです。ここでも同じです。20節に、《かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる》とありました。イエスさまが私たちの内にあり、私たちがイエスさまの内にある。これほど近しく、イエスさまは私たちと共にいてくださる。だから平安なのです。
  もし、私たちにそれでも平安が与えられないとするならば、それは十分に父なる神とイエスさまを信頼して委ねるということが私たちにできないからでしょう。イエスさまの守りの御手よりも、自分の力や自分の見通しといった、まことに頼りにならないものをなおも頼りにしてしまう所で、平和が与えられないと嘆いているのではないでしょうか。イエスさまは、《わたしの平和を与える》とはっきり約束してくださったのです。この約束を、私たちは聖霊なる神の導きの中で信じて、み手に委ねましょう。また、きょうの個所の初めに、《わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き一緒に住む》ともありました。このみ言葉を心に刻み、イエスさまの弟子としての道を歩んで行きましょう。


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