2019年6月16日  三位一体主日  ヨハネによる福音書16章12〜15節
「真理としての聖霊」
  説教者:高野 公雄 師

  《12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」》

  最後の晩餐の席でイエスさまは、《言っておきたいことは、まだたくさんある》と言います。残された時間はもう余りありません。しかも、弟子たちの知識と理解は、いまだ不十分なままです。このままイエスさまが去って行くなら、残された者はどんなに惨めな状態になることでしょうか。私たちも、この時の弟子たちの心細い気持ちを十分に共感できますから、イエスさまがここで語る言葉を身につまされて聞くことができるはずです。
  イエスさまは、まだ教えていないことがたくさんあるのをご存じです。けれども、もう時間が限られているから大急ぎで教えようと言うのではありません。「今は教えない」と言っているのです。そして、教えないのは、《今、あなたがたには理解できない》からであると言われます。それならば、「あなたがた」が成熟するのを待とうと言うのでしょうか。そうではありません。あなたがたは待っていても成熟しません。聖霊があなたがたに与えられるのを待つほかないのです。
  なお、《言っておきたいことは、まだたくさんある》ということを、「今は言わないでおくので、後で補わなければならない部分がある」、とイエスさまが言ったかのように受け取ってはいけません。イエスさまは語るべきことはすべて語られたのです。「まだたくさんある」とは、深みがまだまだという意味です。聖書は最後に、《この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。もしこれに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる》(黙示録22章18)と書き記しています。
  そこで、イエスさまは弟子たちに、《真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる》と約束を与えます。その約束を私たちは自分のこととして聞き取り、約束されたことの内実をシッカリ捉えなければなりません。今は学びがはなはだ不十分ですけれども、間もなく十分に満たされるとの約束が与えられたのです。その鍵を握るのは「真理の霊」です。きょうはこの真理の霊である聖霊というお方について学びます。
  「真理の霊」が降ったならば、足りなかった教えは一挙に満たされるわけですが、ことはそう簡単ではありません。「真理の霊」の働きは、出来合いの知識を教えこむだけのことではなく、その知識を受け入れる用意をさせること、そして、そのみ言葉を留めさせることでもあります。み言葉を聞く用意が聖霊によって整えられることなしに、また言葉を留める手立てなしに、真理の教えを詰めこんでも、詰めこまれた教えはことごとく無駄に終わります。
  み言葉を受け入れる用意をするのは人間の側の努力ではありません。《求めなさい。そうすれば、与えられる》(ルカ11章9)という約束の言葉は真実ですけれども、この教えは結論として、《このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる》(ルカ11章13)と言われます。聖霊を求めることが根幹となるときに、すべての求めとすべての恵みが有効になるのです。
  み言葉が留まるようにすることについては、ヨハネ15章7に、こうありました。《あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる》。み言葉を与えられたとき、聞いた当初は感銘を受けたとしても、それだけで消え去ってしまうことが多いです。み言葉に聖霊が結びつけられてこそ、み言葉が留まるものとなるのです。その結びつきなしに、み言葉または聖霊が独自に、単独に働くこともあるでしょう。けれども、本来の秩序はこの結びつきなのであって、それがイエスさまのみ旨です。
  さて、イエスさまは次に、《真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる》と言っています。ここで聖霊が「真理の霊」と呼ばれる理由が説明されます。つまり、聖霊は、なにかの賜物あるいは効果を与えるのではなく、御自身を与え、真理そのものをもたらすのです。そのとき与えられる聖霊は「あらゆる真理」にあなた方を「導いて」くれます。聖霊の働きなしでは、福音は単なる知識に留まります。聖霊によってはじめて、私たちはイエスさまが復活の主であり、神の栄光を体現するお方であることを、自ら体験した真理として告白することができるのです。「真理の霊」が来て弟子たちを「すべての真理」に導き入れてくださったとき、聖霊によって語った弟子たちの告白が新約聖書として実を結んだわけです。
  次に、《その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げる》とあります。ここでは聖霊の与えるものが聞いて語るもの、主として「言葉」であると教えられます。聖霊が与えるものについて、私たちが期待するものは、力であるとか、潔め、悟り、また徳であることが多いでしょう。その場合でも、聖霊単独の働きではなく、み言葉と結びついての働きがとくに重要だということをわきまえていなければなりません。
  聖霊が語るのは、それ自身の中から語る言葉ではなくて、受けたところを取り次いで伝えるのだと言われます。聖霊は自分の声を聞かせるのでなく、父のところに上がった復活の主イエスさまの言葉を受けてそれを聞かせるのです。そのときイエスさまが受ける「栄光」とは、み子として本来持っていたけれども、隠されていた栄光、これが救い主、メシアとしての任務をまっとうして、メシアの栄光を顕したことを言います。聖霊によって人間に対する救いの告知が完成するのです。
  さて、父と子と聖霊の働きがそれぞれ別であるという説明が行き渡っています。別々に捉えた方がよく分かるという利点があるからです。しかし、きょうの個所では、イエスさまは、父、子、聖霊を別々の働きをするものとして説くのではなく、一貫した業をするものとして説明しようとしています。その教えをまとめたのが15節です。《父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである》。
  福音は三つの段階で伝えられることが示されています。第一は、御父からみ子へです。御父のものはことごとくみ子に伝えらされました。だから、フィリポに対して、《わたしを見た者は、父を見たのだ》(14章9)」と言い、《御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた》(3章35)と教えます。さらに、《父は、御自分のうちに命を持っておられるように、子にも自分のうちに命を持つようにしてくださった》(5章26)と言われ、それに続いて《また、裁きを行う権能を子にお与えになった》と言われます。10章30節では、《わたしと父とは一つである》と言われています。
  子が父に従属するという面は確かにあります。ですから、《父はわたしよりも偉大な方》(14章28)であると言い、《父がわたしをお遣わしになった》(5章36)と言います。父、子、聖霊という順位は、それは救いの秩序に関わってつけられたものです。救いは父なる神にあるのですが、その救いは遥か高いところに留まっているのでなく、み子イエスさままで来ています。
  父が直接に人間に救いを伝えるのでなく、み子に委託したのは、人間の救いだからであって、人間の救いは、人の子となられたイエスさまに移された祝福が、イエスさまから彼の兄弟に分かち与えられるという手順を取らなければならないからです。ここにこそ救いの確かさと現実性があるのです。
  第二に、み子から聖霊へ伝えられます。み子から直接に人々へというのではありません。み子はこの世に降って、救いの業をまっとうされたのですが、それを果たし終えて、地上から間もなく去って行かれます。み子が去ってしまったならば、人々はみ子が成し遂げた救いを、敬虔な思いをもって記念することしかできません。しかし、記念することはできても、み子イエスさまにある救いの現実性は、記念が代わってもたらすことはできません。
  その現実性は、聖霊がみ子から受け、その聖霊をみ子が世に遣わし、遣わされた聖霊はそれをみ子イエスさまの名を帯びている人々に伝え、こうして父から発する救いは人間に達するのです。その人間に達する段階、これが聖霊によってなされる第三段階です。
  父から子へ、子から聖霊へと救いのみ業が移されたと私たちはいま教えられているのですが、イエスさまから遣わされた使徒の宣教の業は、聖霊の業の一環として行なわれ、聖霊の業として実現するのです。このような道筋をとおして、私たちは神の愛を知るのです。


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