2019年6月9日  聖霊降臨祭  ヨハネによる福音書16章4b〜11節
「弁護者としての聖霊」
  説教者:高野 公雄 師

  《4b「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。》

  きょうは、聖霊降臨祭です。聖霊が降臨したのは、使徒言行録2章に、《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると》とあって、ユダヤ教の五旬祭の日でした。夏の五旬祭は、春の過越祭、秋の仮庵祭とともに、ユダヤ教の三つの巡礼祭のうちの一つです。五旬祭は、出エジプト(過越祭)から50日後にシナイ山で神が律法を与えてくださったことを感謝する祭りで(出エジプト24章12)、5月〜6月に行われます。50番目のことをギリシア語で「ペンテコステ」と言うので、五旬祭は(そして聖霊降臨祭も)ペンテコステとも呼ばれます。そして、この祭りには、この時期に収穫が始まる小麦の初穂を神殿にささげますので、この祭りには、シナゴーグではルツ記が読まれます。このルツが、麦畑で落穂を拾った異邦人の女性が、ダビデ王の祖母となったのです。五旬祭にはユダヤが世界に開かれていくイメージがそなわっているようです。
  五旬祭のその日、イエスさまの弟子たちが集まっている家に、突然激しい風が吹いてくるような音が響きわたりました。神のもとから命をもたらす神の息吹が弟子たちが集まっている家に満たされ、その中に弟子たちは包まれたのです。弟子たちは、なぜ聖霊が降ったと分かったのでしょうか。それは、《すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》(使徒2章4)からです。神の言葉が語られ、聴かれたことによって分かったのです。神の言葉を語る者、聴く者が生まれました。そして聴いている者の中から信じて、洗礼を受ける者が現れ、この日、三千人もの人がイエスさまを救い主と信じて洗礼を受けたのです。今日の教会でも同じことが行われています。ですから、このときが教会の誕生日であると言われているのです。
  イエスさまが昇天する前に弟子たちに、《エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからだ》(使徒1章4〜5)と言っていたことが、この日、実現したのです。

  きょうの福音書は、この約束の聖霊について、最後の晩餐の席で弟子たちに話された箇所です。ここで、イエスさまは、二つの重要なことを伝えています。イエスさまが父なる神のみもとに去るということと、イエスさまが彼らに弁護者、真理の霊である聖霊を送ってくださるということです。
  イエスさまは弟子たちに、《初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである》と語り始めます。今やイエスさまは父なる神のみもとに帰り、「あなたがたと一緒に」いることができなくなります。そこで、弟子たちがイエスさまを見なくなっても困らないようにと、弁護者である聖霊を送ることを約束します。
  別れの晩餐の席でイエスさまが弟子たちに語ったことを、弟子たちは理解できなかったので、彼らの《心は悲しみで満たされ》ました。しかし、イエスさまは弟子たちの気持ちを汲み取って、弟子たちを励まし、聖霊を送るという喜びを約束してくださいます。
  《実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る》。こうイエスさまが語られたことを、十字架の前には、弟子たちは十分受け止めることはできませんでした。けれども、十字架のあと、実際に復活されたイエスさまに出会い、聖霊を与えられて、初めて彼らは、聖霊が送られるということがどんなに素晴らしいことなのか、力あることであるかを知ったのです。イエスさまが《わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる》と言われたのは本当に本当のことだったと彼らは知ったのです。そして、イエスさまがどういうお方であり、その十字架とは何だったのか。そのすべてを知った者として、弟子たちはこの福音書を記したのです。ですから、福音書はただイエスさまはこう言われたと記されているだけではなく、それが本当のことだと実証されたことであり、それを知らされた者が記した言葉なのです。
  では、イエスさまが去り、聖霊が与えられることによって悟らされた真理とは何でしょうか。ここでは、最も大切な三つのことが挙げられています。《その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする》とあります。
  第一に、「罪について」世の誤りが明らかにされます。世は律法に違反することが罪だと考えていますが、それは誤りです。《罪・・とは、彼らがわたしを信じないこと》なのです。イエスさまを信じないということは、この世界を造られた神が、その愛する独り子を十字架に渡してまで私たちを救おうとされている、その愛を信じないことであって、これが根本的な罪なのです。
  それは次の、「義について」に続きます。人々は、義とは自分が善い人になって、義しい生き方をすることだと思っていますが、それは間違いです。義とは、イエスさまが《父のもとへ行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること》なのです。つまり、イエスさまが十字架にかかり、復活して天に昇る、ここに義があると言うのです。この義とは、私たちの義ではなく、神の義・神の義しさです。神が愛する独り子を十字架に渡し、その独り子を死から復活させ、死を滅ぼし、天国への道を開いてくださった。この神の義によって、私たちの罪は赦され、神の子とされ、永遠の命へと招かれたのです。
  第三に、「裁きについて」です。世は、裁きとはこの世の支配者が人々を裁くものだと思っていますが、そうではありません。《裁き・・とは、この世の支配者が断罪されることである》のです。イエスさまは、この世の支配者によって断罪され、十字架につけられました。しかし、本当の裁きとは、イエスさまを十字架につけたこの世の支配者(それはユダヤ教の指導者たちであり、背後で彼らを操るサタンのことです)が、神によって断罪されることなのです。神の御前における裁きにおいては、神とその右におられるイエスさまが、すべての人を裁くのです。
  イエスさまは、これらのことを聖霊が明らかにすると言われたのです。聖霊の働きは、預言、異言、癒やしなど、さまざまありますが、その中心、イエスさまの十字架と復活の意義が明らかにするということなのです。《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない》(Tコリント12章3)ということです。このことは、もっとも初期からの基本的な信仰告白です。
  イエスさまは、私たちの弱さをご存じで、自力では御言葉を理解できない私たちのために聖霊を送ってくださるのです。この世の誤りを糾弾される聖霊は、イエスさまの弟子たちを導き、イエスさまの語られる真理をことごとく理解させてくださいます。聖霊は、私たちがイエスさまを礼拝するという行為を通して、ご自身が語られるのではなく、私たちにイエスさまの御言葉を、聖書の神の御言葉を思い起こさせ、これから私たちがイエスさまを信じ、御言葉に従う道を歩ませてくださるのです。それによって聖霊はイエスさまに栄光を与えるのです。聖霊は、イエスさまが与えるものを受けて、それを私たちに伝えて、この世の私たちがイエスさまと共に生きるようにしてくださるのです。こうして、この福音書は、イエスさまの口をとおして、私たちに父・子・聖霊なる神を伝えようとしているのです。
  私たちには聖霊が注がれています。私たちは、聖霊によって信仰を与えられ、導かれ、教えられ、生かされている者です。私たちは、この恵みの事実をしっかり受け止めましょう。確かに、生きていく上での困難があります。しかし、その目の前の困難が私たちをどんなに不安にさせるとしても、全能の力ある神の霊、イエスさまによって送られる聖霊なる神が共にあるなら、必ず私たちの思いを超えた展開を与え、私たちを神の国へと導いてくださいます。私たちそのことを信じて、「ア−メン。聖霊よ、来てください」と祈りつつ、きょうからの日々を新しく歩み始めたいと思います。


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