2019年8月4日  聖霊降臨後第八主日  ルカによる福音書11章1〜13節
「祈りについて」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
  『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
  5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」》


  イエスさまはある所で祈っていました。祈り終わったとき、弟子のひとりが《主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください》と願いました。そこでイエスさまは、《祈るときには、こう言いなさい》と教えてくださった祈りが、毎週礼拝のなかで私たちが祈っている「主の祈り」です。弟子は単に祈りの言葉を教えてくださいとお願いたのではなくて、祈るということを教えてくださいと言っているのでしょう。それに対してイエスさまが答えたのは、祈りとは、まず神に対する賛美である、感謝である、私たち人間の悔い改めの告白であるというような、祈りについての定義づけではありませんでした。イエスさまは単に「主の祈り」という祈りの言葉を与えただけではなくて、「主の祈り」によって示されている祈りの心を弟子たちに、そして私たちに教えてくださったのです。
  それまでは弟子たちは祈るという習慣が無かったのでしょうか。マタイ福音書によれば、イエスさまがこの「主の祈り」を教えられたとき、その前に《祈るときにも、あなたはたは偽善者たちのようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる》(マタイ6章5)と言って、祈るときにはこう祈りなさいと、「主の祈り」を教えられたとあるように、当時のユダヤ人に祈る習慣がなかったわけではありません。それどころか、祈るということは大切な宗教的な姿勢だったと思われます。ですから、宗教的に熱心な律法学者たち祭司たちは人前に出て、祈りをみせびらかしていたのです。しかし、弟子たちはそういう彼らの祈りとイエスさまの祈りとは違うのではないかと気付いていて、それで弟子の一人が、祈りそのものを教えてくださいとお願いしたのだろうと思われます。
  そしてもう一つの動機は、《(洗礼者)ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください》と言っていますので、自分たちが集まって心を合わせて祈るときに、共通の祈る言葉を教えてくださいと願ったということです。つまり、イエスさまが教えられた「主の祈り」というのは、私たちが個人的にする祈りというよりは、弟子たちが集まったときに、共に祈る祈り、共同体としての祈りだということです。ですから今日「主の祈り」は教会が礼拝するときに祈る祈りになっているわけです。もちろん、だから、主の祈りは、個人の祈りではないというのではありません。マタイ福音書では、祈るときには密室で祈りなさい、くどくどと祈らないでこのようにして、祈りなさいと言って、「主の祈り」を教えておられますから、この「主の祈り」は、私たちが一人で静かに心を込めて祈るときにも、祈るにふさわしい祈りなのです。
  この祈りはイエスさまご自身の祈りです。イエスさまはご自分が祈っていない祈りを弟子たちに祈るように求める方ではありません。私たちはイエスさまが祈っていた祈りを、イエスさまと共に祈ることによって、イエスさまと共に神の前に生きる民となるのです。ですから、この祈りは私たちキリスト者にとって最も基本的な重要な祈りなのです。
  この「主の祈り」は、福音書において二つの形で伝えられています。一つはマタイ福音書6章9〜13に伝えられている形であり、もう一つがこのルカ福音書の形です。現在私たちが唱えている「主の祈り」は、ルカ福音書の形ではなくて、共同で祈るにふさわしく整えられたマタイ福音書の形です。
  このルカが伝える端的な「父よ」の呼びかけが、本来のイエスさまの祈りの形を伝えていると考えられます。マタイは「天にいますわたしたちの父よ」と、共同の祈りの形であるとされています。

  今朝は、この「主の祈り」についてすべてをお話しすることはできません。ただ、最初の「父よ」という呼びかけのところに集中して、私たちの祈りを学び直したいと思います。
  イエスさまは、私たちが祈るときに、まず「父よ」と神に向かって呼びかけて祈り始めるようにと教えています。
  そもそも、私たちが幼い頃に、運動会だの遠足だのを前にして「明日天気にしてください」と祈ったとき、誰に向かって祈っているのか、そんなことはほとんど意識していなかったでしょう。それが私たちの祈りのありようだったのではないでしょうか。そんな私たちに対してイエスさまは、祈るべきお方は「天地を造られたただ一人の父なる神」なのだと教えているのです。ここで私たちが祈りをささげるお方が誰であるかということがはっきりします。これは本当に大切なことです。
  しかも、その神に向かって「父よ」と呼びかけて良いというのです。イエスさまが天地を造られた神に向かって「父よ」と呼びかけるのは分かります。イエスさまは父なる神の独り子なのですから、それは当然でしょう。しかし、どうして私たちも神を「父」と呼ぶことができるのでしょうか。そもそも「父」と呼ぶことができるのは、その人の子供しかいないはずです。そうであればり、私たちが天と地を造られた唯一の神に向かって「父よ」と呼ぶことができるということは、私たちが神の子とされているということなのです。それが恵みであり、救いなのです。
  私たちは、自分を造ってくださった神を知らず、それゆえに唯一の神をあがめることも知らず、自分の思いのままに生きていた者でした。しかし、神はそれでもなお私たちを愛してくださり、愛する独り子イエスさまを私たちに与え、私たちのために、私たちに代わって十字架に掛け、そのイエスさまの十字架によって私たちの一切の罪を赦してくださったのです。そして、私たちを神の子として受け入れ、《わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った》(イザヤ44章22)と招いておられるのです。
  この「父よ」という呼びかけが言えるかどうか、それは、私たちに信仰があるかどうかということと同じです。神に向かって「父よ」と言うぐらい、簡単なことだと思う人がいるかもしれません。しかし、そんなことはありません。使徒パウロはローマ8章14〜15でこう言っています。《神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです》。つまり、まことの神の子であるイエスさまが聖霊として私たちに宿り、私たちに信仰を与え、私たちを神の子としてくださることによって、初めて、私たちは神に向かって「父よ」と呼ぶことができるのです。信仰が与えられる、救われるということは、天地を造られた唯一の神の子とされるということなのです。そして、この恵みの中で、私たちの祈りの生活は始まっていくのです。
  まず、神に向かって「父よ」と呼びかけて、心を神に向けることです。神は私たちのところに来てくださり、私たちの声にならぬ声さえも聞いてくださいます。自分でさえよく分かっていない心の叫びを、神はしっかりと受け止めてくださいます。《あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ》(マタイ6章8)なお方だからです。そしてまた、私たちが、神の愛してやまない、神の子だからです。
  今、共に「父よ」とお呼びしている、この恵みの中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。


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