2019年8月11日  聖霊降臨後第九主日  ルカによる福音書12章13〜21節
「愚かな金持ちのたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」》

  イエスさまのまわりには、多くの群衆が集まっていました。その中の一人がイエスさまに向かってこう訴えました。《先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください》。
  当時のユダヤ教のラビ(教師)は、律法の専門家であり、同時にユダヤ教社会での法律家(弁護士)でもありました。ですから、離婚の問題から、隣の家との土地の境界線をめぐる問題、子供の教育の相談、そしてこの人のように遺産相続をめぐる問題、日常のありとあらゆる問題が持ち込まれてきました。この人はイエスさまを権威のある立派なラビと見て、兄弟の間で起こった遺産相続のもめごとをイエスさまに相談し、その裁定によって遺産を得ようとしたのでしょう。
  ところが、イエスさまの答えは、この人が期待していたものとはまったく違ったものでした。《だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか》と答えたのでした。イエスさまは自分の使命は、法律によって人々の間の紛争を裁いたり調停したりする法律家になることではないと言って、その求めがお門違いであると諭しました。イエスさまは「神の恵みの支配」を告知するために、そして命の道を指し示すために、神から遣わされたお方なのです。イエスさまは私たちの裁判官や調停人ではありません。地上の富の問題は世の法律家に委ねtおられます。
  《そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」》。「遺産を分けてほしい」という問題は、この人ひとりの問題ではなく、弟子を含めたすべての人に関わる問題です。ですから、このあと、イエスさまはもうこの人に向かってではなく、《そして、一同に言われた》と、群衆に向かって「貪欲」についての話をされたのです。
  人間には生まれつき備わった欲求があります。食欲や性欲は生存を維持するために生まれながらに身についている欲求です。そして、自分が欲求する物を自分の支配下に置いておきたいという所有欲があります。これも自然の欲求でしょう。しかし、その所有欲が自分の生存に必要なものという限度を超えて、自分の快楽や満足や誇りのために、少しでも多くと際限なくふくれあがるとき、それは「貪欲」となります。
  「貪欲」とは「むさぼる」ということです。十戒の最後に《あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべての隣人の持ち物をむさぼってはならない》(口語訳の出エジプト20章17)とありますが、その「むさぼり」です。「むさぼる」というのは、せっぱ詰まって他人のものを盗むのとは違います。自分はものを持っているのに、他人のものが欲しいというのです。イエスさまに遺産の分配について訴えた人は、決して生活に困っていたわけではありません。もっとお金が欲しいということで、遺産の中の取り分をもっと欲しいと思ったのです。それはこの人だけでなく、まさに私たちの心のなかに根強くある思いです。
  この貪欲こそ、あらゆる不義や暴虐の根です。イエスさまは「どんな貪欲」も、命の道を歩む者には危険であるから、注意を払い、用心して遠ざかるように警告されます。どうしたら、この貪欲にふりまわされないように警戒することができるのか。それは、《有り余るほどの物を持っていても、人の命は、財産によってどうすることもできない》ということをしっかりと知っておくことだとイエスさまは言います。私たちの命を根本的に支えるのは、物ではない、お金ではない、神だということをしっかりと知っておくことです。つまり、富よりももっと頼りなるものがあることを知ることが、私たちが貪欲から解放される道だということです。そのことをイエスさまはたとえで教えられます。

  ある金持ちの畑が豊作だった。あまりに豊作で、それをしまっておく場所もない程でした。そこで、この金持ちは、倉を新しく、大きくします。そして、その新しい大きな倉に豊作だった穀物を入れ、財産を入れ、そして安心するのです。これで、もう何年先までも生きていける、もう大丈夫。食べて、飲んで、楽しもう。そう、自分に言うのです。
  このたとえ話の意味は明白です。この金持ちは自分が所有する多くの財産で、これからの自分の命が保証されたと安心しています。しかし、人の命を決めるのは彼自身ではありません。人間は自分の生まれる時と死ぬ時を決めることはできません。それを決めるのは、彼に命を与えた方、創造者なる神だけです。そのことがこのたとえで印象深く語られています。
  小見出しにもあるように、このたとえ話は、昔から「愚かな金持ちのたとえ」と言われてきました。しかし、一体この金持ちのどこが「愚か」だというのでしょうか。このたとえの最後で、神は、《愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか》、と言われました。神は「いったいだれのものに」と言われますが、金持ちは、当然、自分のものだと思っていたものです。この金持ちは、自分の命を含めて、すべては自分のものと考えていました。そしてそのことこそが、神に「愚か」と言われているところなのです。命も富も食べ物も、すべては神のものです。それを知らずに、すべてを自分のもの、自分でどうにでもできるものと考えてしまう。それが「愚か」なのであり、それが貪欲の罪の根本に潜んでいるものなのだと、イエスさまは告げられたのです。私たちの命は神のものです。神が私たちに命を与え、今日も生きよと日毎の糧を与えてくださいます。神がその必要のすべてを備えてくださり、富を与えてくださった。とするならば、私たちは自分の命も富も、本来の所有者である神のために用いる、神に献げるべきものとして用いるのが当然です。このことを忘れるとき、私たちは自らの貪欲の罪に支配されてしまうということなのです。
  つまり、私たちはある程度貯蓄したり、保険に入たりするわけですけれど、その時に、こうしたことをしても今夜自分の命は取り去られるかも知れないという覚悟をもってそうしているか、そしてそうしたら、今まで貯めてきたお金は他の誰かのものになってしまう、それでもいいのだという覚悟をもってそうしているかということではないかと思います。   イエスさまは最後に、この段落の意義を要約して、《自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ》と言われました。
  「このとおりだ」というのは、この金持ちのように愚かな生き方をしているのだ、という意味です。この金持ちのように、地上で自分のために大きな富を蓄えても、神が喜ばれる形でその富を用いないならば、命が取り去られて神の前に出るとき、何も持たない者として退けられるだけです。その人の地上の生涯は無意味なものとなり、その人の生き方は愚かなものであったことになります。
  「神の前に豊かになる」というのは、自分の財産を教会に献金して、天国に貯金しなさいというようなことではありません。そういう、いわば功徳を積むということではないのです。自分をどんどん太らせることによって、安心を得ようとするのではなく、むしろ逆にどんどん自分をスリムにしていって、いらないものはどんどん捨てていって、スリムになって神に信頼して生きなさい、それが、「神の前に豊かになる」いうことなのです。
  《あなたがたには自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです》(ヤコブ4章14)。だから不安になるのでしょう。しかし、私たちが知り得ない明日は、神の御手の中にあります。私たちにとって、先立つものは金ではなくて、神です。その神の御手の中に、私たちの人生の昨日も今日も明日も、死んで後も、すべてがあります。私たちのためにその独り子さえ惜しまずに与えられた、その父なる神の御手の中にあります。だから、安心して委ねて良いのです。その安心の中で、私たちは自分をしばっている貪欲や富の誘惑からも自由にされていくのです。この自由の中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。


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