2019年8月18日  聖霊降臨後第10主日  ルカによる福音書12章49〜53節
「地上に火を投ずるため」
  説教者:高野 公雄 師

  《49 わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。》

  《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか》。
  「わたしが来たのは〜するためである」という形でイエスさまがご自分の使命を語ったとされる語録は各福音書にあります。その中で、《わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである》という言葉は三つの福音書に共通していて(マルコ2章17、マタイ9章13、ルカ12章49)、「恵みの支配」というイエスさまの使信の核心を表現しています。ヨハネ10章10は、《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである》という形で、イエスさまが神から遣わされて世に来られたのは、彼を信じる者が永遠の命を受けるためであるというヨハネ独自の使信を宣言しています。ここの《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである》という言葉は、イエスさまの「神の国」告知の終末性をよく示しています。
  当時のイスラエルの民には、終わりの日が火の中に現れるという思想が行き渡っていました。終わりの日には、神は火をもって世界を裁き、罪を焼き滅ぼし、それによってご自身の民を清められるという信仰です。洗礼者ヨハネは、この火による終末審判を預言して、こう言いました。《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》(ルカ3章16)。
  イエスさまはご自分の使命が、終わりの日をもたらす神の火を世界に投ずることであると自覚していて、《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである》と語ります。しかし、イエスさまは、その火が世界を焼き尽くす火ではなく、世界を変容させる聖霊の火であることに気づいていました。その火がご自分の中で熱く燃えて「神の支配」の現実を体験させているように、その火が世の人々の中に燃えて、神の「恵みの支配」という終末的現実が地上に実現することを切に願います。それが、《その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか》という、イエスさまには珍しい願望を表わす形で語り出します。

  《しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう》。
  その願いが実現するためには、すなわち、イエスさまの中に燃えている終末的現実をもたらす聖霊の火が世の人々の中に燃えるようになるには、イエスさまにはその前に受けなければならない洗礼があることを自覚しています。すでにイエスさまはヨハネから洗礼を受けていますから、それは「洗礼」という語が指し示すような儀礼ではなく、「浸されること」というもともともの意味で示される状態です。
  では、この表現はイエスさまがどのような状態に「浸される」ことを指しているのでしょうか。それはイエスさまがすでに予告していたご自分の受難です。イエスさまは、《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》(ルカ9章22)と、弟子たちに告げていました。それは、たんにこの世で迫害され、痛い目に遭わせられ、殺されるという苦難だけではなく、イザヤの「主の僕」の預言を成就する者として、神の民を贖うために、民の罪を負い、神の裁きに服する苦しみです。その苦しみはゲツセマネでの祈りにおいて姿を現し(ルカ22章44)、十字架の上で終わる苦しみですが(ヨハネ19章30)、それが終わるまでイエスさまはずっとその苦しみを担い続けられます。イエスさまはこの苦しみを、受難の地エルサレムに入る直前に、「わたしが飲む杯、わたしが受ける洗礼」と語っています(マルコ10章38)。

  《あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる》。
  イエスさまは「わたしが来たのは、地上に分裂をもたらすためである」と言います。そして、その分裂を具体的に語り出します。《わたしは柔和で謙遜な者だから》(マタイ11章29)、また《柔和な方で、ろばに乗って》(マタイ21章5)と称される、その柔和なイエスさまが、このような激しい言葉を語り出されるのはどうしてでしょうか。それは、《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである》と言われたことの、避けられない結果だからです。
  イエスさまはすでに、神の言葉に従う者の間の絆は、親子や兄弟という血縁による絆を超えるものであることを、《わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである》(ルカ8章21)と語っておられました。ここではさらに強い形で、イエスさまに従うことが家族の血縁の絆よりも優先されなければならないことが語り出されます。この語録は、マタイ10章34〜36にも並行箇所がありますが、マタイでは、《(わたしは)平和ではなく、剣をもたらすために来たのである》とあり、最後に《自分の家族の者が敵となる》という言葉で結ばれています。表現は少し違いますが両方とも、イエスさまに従って終末の現実に生きる者は、この世とは厳しい対立、敵対、迫害の中に歩むことを覚悟しなければならないことを語っています。
  親子の情愛は人間を結びつけるもっとも強い絆です。しかし、イエスさまとの結びつきはそれよりも優先されなければならないのです。イエスさまとの結びつきが神との関わりを決定するのですから、それはどんな人間関係よりも優先されなければなりません。《わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》(マタイ10章37)と言われるのは当然のことなのです。
  イエスさまが地上に投じる火は、終末の現実をもたらす聖霊の火です。この火を身に受けた者は、この世の原理とは違う原理で生きるようになります。イエスさまに対する信仰を言い表し、イエスさまに所属し、この火に燃やされて生きる者は、イエスさまを拒み、この火を受けることなく、この世の命に生きる者と一緒に歩むことはできないのです。それは、イエスさまを信じるか否むかが神の前に人を二分することの当然の結果です。神との関わりはあらゆる人間関係に優先するからです。イエスさまが普通の人間であるならば、これほど傲慢なことはありません。ユダヤ人たちは、イエスさまを一人の人間としか見ないので、このような主張をするイエスさまを憎み、ついには殺しました。この言葉は、「イエスとはいったい誰か」という問いを、私たちに突きつけているのです。
  《自分の家族の者が敵となる》という、この言葉は昔から、キリスト教は家族の絆を破壊するものであるという非難の根拠にされてきました。また、かつてカルト的な宗教が青年を家族から引き離して隔離された世界に引き込むような事件が起こって、信仰と家族の関係が社会問題になったことがありました。福音の場合はこのようなカルト宗教とどう違うのでしょうか。
  聖霊の火に燃やされた者は、家族の絆を捨て、この世から隔離された別世界に閉じこめられるのではありません。聖霊の火は、家族に染みこんでいる伝統的な宗教や慣習の鎖から私たちを解放し、宗教とか文化の違いにとらわれない自由な交わり、開かれた世界に導き入れます。
  《このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました》と言ったペトロに、イエスさまはこう答えています。《はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける》(マルコ10章29〜30)。来るべき世で永遠の命を受け継ぐだけでなく、この世でも捨てた家族を百倍にされて受けることになるというのです。この言葉は、いったん捨てた家族も社会も、「開かれた人間関係」という新しい原理で、以前にもまして豊かに受け取ることを示しています。
  イエスさまが投じた聖霊の火によって、私たちはその火に燃やされ、清められて、新しくされ、まことの平和を造り出す者とされていくのです。


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