2019年9月8日  聖霊降臨後第13主日  ルカによる福音書14章25〜33節
「弟子の覚悟」
  説教者:高野 公雄 師

  《25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」》

  イエスさまは弟子たちを伴ってエルサレムに向かって旅をしています。イエスさまの奇跡を見よう、教えを聞こうと人々が集まってきます。イエスさまはこれらの人々に語りかけます。これら大勢の群衆の中から、はたして何人が、本当のイエスさまの弟子となるでしょうか。それが問題です。
  イエスさまは集まった人々に、《自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》と言います。
  「自分の十字架」とは何でしょうか。いまでこそ、十字架はアクセサリーのデザインに使われていますが、十字架刑はイエスさまの時代には重罪人に対する残酷な極刑でした。ですから、十字架という言葉で、人々は苦痛や困難というイメージを抱いたのです。ですから、十字架がキリスト教やキリスト者のシンボルとなったのは、十字架刑がなくなり、その生々しいイメージが消えた、後の時代のことです。初期の教会では、魚の絵がキリスト者のシンボルとして使われました。当時の世界語であるギリシア語で魚はイクテュス(ΙΧΘΥΣ)といいますが。その文字を頭文字とする言葉は、「Ιはイエス、Χはキリスト、Θは神の、Υは子、Σは救い主」となるからです。
  ともかく、十字架という言葉は、現実の十字架刑を意味するだけでなく、比喩的に病気とか苦しみを意味しました。ですから、いまでもしばしば、「自分のこの病気を自分の十字架として背負っていきます」というように使われます。しかし、イエスさまがここで《自分の十字架を背負って》と言っているのは、そのような単に自分の苦しみと向き合うというような意味ではありません。この十字架とは、神のために、イエスさまのために、神の御心に従うために負う苦しみのことなのです。
  私たちは、自分の家族や自分のためならば、苦しいことも苦しいとも思わずに頑張ることができるものです。それは信仰の有無とは関係なく、誰でもがしていることです。子供を持つ、これを育てるというのは、なかなか大変なことです。しかし、それは信仰がなければできないということでもありません。もっとも、私は子育てにも信仰は必要だと考えていますが。自分の子供のための苦労なら、それは喜んで誰でもがすることでしょう。しかし、それが自分の家族以外の者のためとなるとどうでしょうか。自分のこと、家族のためなら苦労をいといません。けれども、それと同じように神のために、イエスさまのために、隣り人のために労苦することができるでしょうか。イエスさまはそのことを問うているのです。
  ここでイエスさまは、《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない》と言われます。大変厳しい言葉です。ただし、この「憎まないなら」という言葉は、誇張した言い方です。十戒には「父と母を敬え」とあります。父や母や家族を憎めということを言葉通りに受け取ったら、キリスト者の家庭はどこも家族が憎み合っている家庭になってしまいます。ここでイエスさまが言おうとしていることは、自分の家族も、自分自身の命さえも、自分のものとして握りしめていてはダメだ。それを与えてくださったのは神ではないか。だからすべてを神のものとしなさいということです。家族のことも、自分のことも、一切を神に委ねなさいということです。その「覚悟」が必要なことを「憎む」という言葉で表しているのです。
  もちろん、神は何一つムダにはされません。仕事であれ富であれ何であれ、人が身につけたものは、神は御自身の業のために用いてくださいます。しかし、一度は捨てなければなりません。捨てた上で、神が用いてくださるというのであれば、存分に用いていただくということになるのです。私たちが与えられているものは、すべて神から受けたものですから、神に従うのに邪魔になったりするようではいけません。邪魔になるような関わり方であってはならないということです。家族も仕事も富も、すべては神に仕えるために備えられているもの、与えられたものだからです。イエスさまの弟子として生きるということは、自分と周りのすべての関わり方が変わるというわけです。
  イエスさまの弟子として生きるには覚悟が必要なことを、イエスさまはさらに、「塔を建てようとする人」と「戦いに臨む王」の二つのたとえで語ります。塔を建てようとすれば、事前に費用の計算をするだろう。戦いをするときは、相手の兵力を見て、勝てるかどうか計算して、勝てそうになかったら和睦するだろう。それと同じように、イエスさまの弟子として歩もうとするならば、これは一生の問題なのだから、きちんと考えて、覚悟をしなければいけない。そう言われたのです。このきちんとした覚悟こそ、一切を捨てて、一切をイエスさまに委ねて、その時その時に求められる神のための労苦を担っていくというものなのです。《だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない》。これが、ふたつのたとえの結論です。この言葉は、《自分の十字架を背負って》イエスさまに従えという言葉を補強するものです。
  十字架と聞くと、私たちはすぐに苦しみと思いますが、イエスさまの十字架のことを考えると、イエスさまにとって十字架とは、何よりも父なる神の御心に従うということでした。あのゲッセマネの園での祈りのなかで、イエスさまが求めたのは、何よりも《わたしの願いではなく、御心のままに行ってください》(22章42)ということでした。そしてそれが結果的には、十字架の死という苦難の道でもあったのです。「わたしの願いではなく」ということですから、それはやはり当然そこに自分を捨てるということが伴うわけで、苦しい自分との戦いが強いられるに違いないので、十字架イコール苦しみともなるわけです。しかし、十字架ということで何よりも大事なことは、神の御心に従うということなのです。自分中心に生きないということです。
  イエスさまの弟子になるといっても、その中心に自分を捨てる、自分の十字架を担うという覚悟とその生き方をもっていないならば、それはイエスさまの弟子とは言えないということです。どんなに人を愛し、人のために仕えるといっても、もしそこに自分を捨てるということ、自分の十字架を負うという姿勢がないならば、それは愛にはならない、奉仕にはならないということです。大事なことは、イエスさまに従うということです。
  イエスさまに従って命の道を歩むためには、「自分の命を憎む」とか「自分の持ち物を一切捨てる」というようなことが必要であると聞くと、私たちはあとずさりするでしょう。のちに18章に出てくる「金持ちの議員」も非常に悲しみんで去っていきました。その議員と同じく、私たちだって、《それでは、だれが救われるだろうか》と、驚くでしょう。その驚きに対して、イエスさまは、《人間にはできないが、神にはできる》(18章18〜30)と答えています。イエスさまは、自分の持ち物を一切捨てるというような英雄的な行動は人間にはできないことをご存じです。それにもかかわらず、あえてそうするように求めたのは、人々が自分の無能力・無価値を認めて、神の恵みの力に身を委ねるように導くためでした。ところが、人は自分で無価値・無資格を認めて、すなわち自我を打ち砕いて、神の恵みに身を委ねることができません。神がそれを可能にしてくださるのです。
  では、神はどのようにして自我を打ち砕くという人のできないことを成し遂げてくださるのでしょうか。それは反抗を力ずくで撃ち砕いて成し遂げるという仕方ではなく、人間の弱さを自らに引き受けるという、人間が思い浮かべることもできないような意外な仕方で成し遂げられたのです。それがイエス・キリストの十字架です。イエスさまは十字架の上で血を流して死なれました。それは私たち人間の罪のためでした。すなわち、自己の価値を主張して、神の恵みにひれ伏そうとしない人間の自我という根源的な罪を自らに引き受けての死だったのです。神はイエスさまの十字架において人間のかたくなな自我心を打ち砕かれました。今、イエスさまを信じてその十字架に合わせられる者は、自我の砕けを恵みとしていただけるのです。


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